逆説の「朝鮮」素描⑧-百田尚樹『今こそ韓国に謝ろう』の誤り( `ー´)ノ(その2) | 流じゅーざの『日韓・朝韓』

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バンコク在住のじゅーざです。

 

  新シリーズです♪

 

正直いつまでネタがあるか分かりませんが…(滝汗)

 

19世紀末から戦前の朝鮮の真実に迫る話を紹介していきましょう。

 

  もち韓国人にも、日本人にも嫌われる話になるかも???(汗)

 

第4回は、

 

  百田尚樹著『今こそ韓国に謝ろう』(飛鳥新社)

 

を見つけたので目次を見たら

 

  案の定いい加減なことを書いていそうな部分があったので購入…

 

そしたら

 

  案の定の案の定、いいかげんなことを書いていたのでここで批判の上、訂正します。

 

ま、今回の批判は

 

  重箱の隅つつきだけどね。(苦笑)←でも「小目次」立ってるからな…

 

一応謙遜しておこう。

 

オレが過去にこのブログとその前身のブログ(アメブロ運営に消された)で書いた話です。

 

それは

 

  朝鮮王王朝末期・大韓帝国の貨幣の流通について

 

この件について案の定百田はネットの俗論の、しかも上澄みだけとって

 

  「貨幣が流通しなかった」(57ページ)

 

と書いてます。

 

まあネットでもよくある論調ですね。朝鮮から通信使が来た時に日本国中貨幣が流通し、しかも重い貨幣を所持しなくても旅が出来るのに驚いた、とか。

 

最初に書いておくと

 

  日本の江戸時代の貨幣制度は世界に冠たる進歩をしたものでした。

 

なので、

 

  日本に比べて朝鮮の貨幣制度が遅れていたというのには反対しません

 

が、しかし

 

  「併合前の朝鮮は貨幣というものが用をなしていませんでした。」(57ページ)

 

と書き

 

  「(李朝時代に貨幣は)まったく流通しませんでした。貨幣の代わりに用いられたのは米や布で、取引の主流は物々交換でした。」(同上)

 

と言い切ってしまうと…

 

  はっきり言って落第です(´・ω・`)

 

今回反証に使うのは

 

  『明治43年 韓国貨幣整理報告書』(韓国銀行刊)です。

 

って

 

  バンコク市内で100年以上前の本を読みながら電車に乗ってる奴オレくらいだろう…(おいおい)

 

まずはこの本で朝鮮の貨幣の歴史を振り返りましょう。

 

あ、

 

  勘違いしないでほしいのですが、ここで書くことは百田への反論を兼ねてネットに流れている極論を批判するためでもありますので、念のため。

 

まずは、李朝に至る前の歴史…

 

 996年(高麗成宗15年) 鉄銭を作るが普及せず、米布を用いる

1101年(高麗粛宗06年) 銀瓶を作る(重さは1斤)

1102年(高麗粛宗07年) 銅銭「海東通宝」を発行

  その後、「海東重宝」などいくつかの貨幣が鋳造されたとされるが時期は不明

  その後、銀瓶の乱造で価値が暴落し、一般の交易には依然として米布が用いられる

 

そして李朝になって…

 

1392年(太祖 元年) 朝鮮通宝発行

1401年(太宗 元年) 楮幣(紙幣)を発行して、銀瓶を禁止。

1464年(世宗 9年) 箭幣(現物残らず)を鋳造して楮幣に換えようとしたが流通せず

 

  この時期でも交易は米布が主で、貨幣は一部の証人の間だけで使われた。

 

1592年~ 文禄・慶長の役で楮幣の価値が崩壊…明から持ち込まれた銀が使われた

1633年(仁祖11年) 銅銭「常平通宝」を発行。

 

  商都開城以外ではほとんど流通せず

  その後20年くらいで中国の貨幣や盗鋳で貨幣価値が下落するインフレに

 

1656年(孝宗 7年) 銅銭の使用をとりやめる

 

  しかし貨幣経済が根付き始めていたため鋳銭や盗鋳が行われた。

 

1801年(純祖 元年)以降、役所も利益優先で質の悪い銅銭を鋳造したためインフレに

 

  注:常平通宝には裏に印があって鋳造した場所や役所が異なるバージョンがあったのです。

 

1866年(高宗 3年) 大院君が景福宮再建事業の資金のために当百銭(1枚で常平通宝100枚分の価値)の大銭を鋳造したが普通の常平通宝より少し大きいだけだったので価値が暴落してインフレに

 

1882年(高宗19年) 閔氏政権が銀標を発行するが翌年鋳造停止。

1883年(高宗20年) 閔氏政権が当五銭(1枚で常平通宝5枚分の価値)を発行。しかし大きさは常平通宝の大きいものと同じ程度の大きさしかなかったために価値が下落してインフレに

 

しかも

 

  「帝都(現ソウル)附近の五両(5文)も地方に於いては1両(1文)視せらるるの奇観を呈する」

 

という状況に…

 

1891年(高宗28年) 典圜(てんえん)局に命じて1円銀貨と10文、5文の銅貨を鋳造したが広く通用せず。

1894年(高宗31年) 日本主導の新式貨幣発行章程を発布し、銀貨・白銅貨・赤銅貨・黄銅貨を発行。しかし鋳造利益の高い白銅貨が乱造される

1901年(光武5年) ロシア主導の貨幣条例成立。(日本の銀貨流通を禁止)

1904年(光武8年) 第1次日韓協約によって就任した目賀田種太郎財政顧問が条例に手直しをして新規に貨幣整理に着手しつつ、新たな貨幣を発行。

1905年(光武9年)から1909年まで、日本の第一銀行(頭取:渋沢栄一)が「貨幣整理」を行う。

 

 

という感じになってた訳で。

 

この「貨幣整理」の大事業自体が

 

  朝鮮国内に流通していた常平通宝や白銅貨など過去に発行された貨幣を回収して(改訂)「貨幣条例」に基づいて発行された新しい貨幣に置き換える

 

というものだったわけです。

 

  そもそも朝鮮国内に貨幣が流通していたからこその事業( `ー´)ノ

 

ことほど左様に

 

  朝鮮半島の隅々まで貨幣は行きわたり、利用されていた訳です。

 

しかも注意を引くのは

 

  後年「葉銭」と呼ばれた「常平通宝」が貨幣整理の段階でも朝鮮の北東部の咸鏡道や南部の全羅道・慶尚道では用いられていた。

 

ということ。

 

1894年の新式貨幣発行章程以降に

 

  粗製乱造された白銅貨が現在のソウルを中心に北は平安道から黄海道、京畿道、忠清道に広く用いられた

 

のだけど、恐らくはそれ以前は

 

  京畿道を中心に粗製の「当五銭」が流通していた可能性が高いのだけど、それは次の話です。

 

しかし、地域を越えての流通がスムーズでなかったのは

 

  銅銭が主で、金貨や銀貨といった高額貨幣が使われていなかった

 

ことが大きいと思います。

 

実際は北部朝鮮で金も銀も算出したんですが

 

  王室が管理して主に装飾品にのみ用いられ(一部密輸に)貨幣には用いられなかった

 

これが朝鮮の経済発展のボトルネックの一つになったのだと思います。

 

また朝鮮王朝末期に王権の威令が全国に行き届かなかったことが

 

  全国で統一した貨幣流通を阻害していた、と考えられます。

 

いずれにせよここに書いたのが

 

  真実の朝鮮の貨幣史であって

 

  「併合前の朝鮮は貨幣というものが用をなしていませんでした。」(BY百田)

 

ということはなかったのです。

 

インフレとは貨幣価値の下落なので、

 

  そもそも物資と相対する貨幣がないと成立しないのですから。

 

次回は実際に朝鮮を旅行した人たちの証言を基に

 

  貨幣流通の実際を見てみましょう。

 

こんかい終わり

 

 

 

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