徳恵姫(徳恵翁主)に関する俗説への反論の証拠かも???徳恵姫の「てへぺろ」な帰国の記事 | 流じゅーざの『日韓・朝韓』

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バンコク在住のじゅーざです。

 

以下、本題です。

 

「大韓帝国最後の姫君」として

 

  その悲劇性を日本帝国主義の犠牲

 

の例として引き出される

 

  高宗の末娘徳恵姫(韓国では徳恵翁主)

 

については何度もここで書いていますが、その徳恵姫に関する

 

  一級資料

 

とされるのが

 

  本馬恭子著『徳恵姫に李氏朝鮮最後の王女』(葦書房)

 

なんですが、そこで

 

  徳恵姫が日本留学後に母親である梁貴人と自由にあえなかったのは日本がひどいんだ

 

てきな話が「韓国でされている」と紹介しているんだけど、思うにこれも非常に

 

  現代の価値観で見た曲説

 

の一つであると思います。。

 

例えば朝鮮王朝時代に幼いときから宮中に入った女性たちは

 

  基本死ぬか死ぬ直前になるまで外に出れないのが通例でした。

 

そんな女性たちの母親が王宮に娘に会いに行けるわけはなし(お后候補でなければ身分が低い家が普通だった)、これも

 

  現代的視点からすれば非人道的な話

 

なんですな。

 

徳恵姫自身、幼いときに母の兄(王宮で入りの肉屋だった)で、この叔父を差別する発言をし、自分の実家は「皇后だった閔氏の家だ」と発言していたという話が伝わってるわけで。

 

  自分の娘からもさげすまれる家庭の出身だったのが母親の梁貴人だったんですな。

 

そして徳恵姫が母が死ぬ前に会えなかったか、というとそれがはなはだ疑問に思える資料が見つかりました。

 

『徳恵姫』は朝鮮時代の資料をほぼ100パーセント、朝鮮語新聞にたよっているため(恐らく協力したのが韓国人だから)徳恵姫の需要な事績である

 

  童謡の姫君

 

関連の話が大きく欠落しているんですが、今回欠落が発見されたのが

 

  梁貴人が死去する年の新年に徳恵姫が一人で里帰りしていた。

 

ということ。

 

李王の位を継いだ李垠殿下は確かに留学中のほとんどの朝鮮に帰省が出来なかったんですが、

 

  徳恵姫はなんやかやで毎年のように帰ってたりします。

 

まあ帰る機会が葬祭関係が多いので自由な行動はあまり出来なかったでしょうが。

 

ところが梁貴人が亡くなった1929年、正確には1928年年末に

 

  「冬休みを利用して帰省した」

 

という記事を発見( `ー´)ノ

 

しかもカメラに向かって

 

  満面の笑み

 

で映ってます。

 

詳しくはまた後で書きますが、彼女は学習院に途中編入したので

 

 勉強が大変だったのが事実。(特にフランス語)

 

だから色々な行事に際しても、周囲が配慮して早めに日本に返したこともあったと思うんですが、

 

  当然そんな話は『徳恵姫』にも出てこない。

 

ましてや

 

  冬休みを利用して一人で(お付きは当然います)朝鮮に帰りました♪(てへぺろ)

 

な話はまったく出てこないわけでね。

 

まあ

 

  母親である梁貴人の葬儀の直後に日本に返されたのは政治的意図も感じますが…

 

そういった記録に残る事実が、徳恵姫の場合も資料が戦後ハングルと日本語に、韓国と日本に分かれてしまったために確認が出来なくなってますね。

 

っつーか、韓国ではやはり

 

  日本から弾圧されたと有名な児童保護運動家の方小波が「正月(1月1日)」にJODK(ラジオの京城放送)で童話を語ってる

 

なんて事実も発見しましたけどね、今回偶然に。

 

まだまだ日韓併合期の話には作為、不作為的に埋もれている事実があるのはまちがいないでしょうね。

 

  でもそれを政治的に利用したらダメだよな…

 

去年韓国では公開されたのは

 

  史実捻じ曲げ映画『徳恵翁主』のように!!!

 

こんかい終わり

 

 

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