日出小学校の教職員(1922年)
「いいね」、「リブログ」、「ペタ」大歓迎です( `ー´)ノ
<関連エントリー>
1.【日本に大切にされた徳恵姫】日出小学校は徳恵姫を尊び、徳恵姫は日出小学校を敬った(序文)
2.【日本に大切にされた徳恵姫】日出小学校は徳恵姫を尊び、徳恵姫は日出小学校を敬った(資料紹介)
3.【日本に大切にされた徳恵姫】日出小学校は徳恵姫を尊び、徳恵姫は日出小学校を敬った(本編1)
(本記事の内容を引用・商用利用する場合は事前に必ずご連絡願います。)
(この件については真面目にお金もかけて調べているので。)
バンコク在住のじゅーざです。
では今回は本論の第2回目です。
以下、引用・言及している文献は下記のように略させていただきます。
・『徳恵姫』-本馬恭子著『徳恵姫 李氏朝鮮最後の王女』
・『赤煉瓦』-京城日出会編『わが赤煉瓦の学び舎 京城日出小学校百年』
・『悲劇の王女』-城田吉六著『悲劇の王女徳恵翁主の生涯 対馬に嫁した李王朝最後の王女』
・「京城日出小学校について」-稲葉継雄著・論文「京城日出小学校-在朝鮮「内地人」-」
・『閑院宮』-京城日出小学校編『閑院宮奉迎記念』
7.徳恵姫を囲む訓導(教諭)たち
訓導というのは昔の「先生」の意味です。
大山校長についてはすでに言及しましたが、今回触れるのは直接徳恵姫を担当した訓導たちのついてです。これについては『赤煉瓦』の中で杉浦喜美子(旧姓碓井)が回想録で
「私が二年の時李王家の姫君徳恵様が、私達の組に入っておいでになりました。(2年3組)担任は鈴木ハル先生、三年、四年(いずれも3組)は真柄(麻柄)トヨ先生、五年(3組)は小川吉太郎先生でした。今から考えると徳恵様の勉強のお世話をするのに、最適任の優れた先生方でいらっしゃったと思います。」
と書いています。この内容は『京城日報』でも確認できるので間違いない事実のようです。
鈴木ハル訓導は大正3年から11年まで8年間日出小学校に勤務し、徳恵姫が3年に上がった際には日出小学校にはおりませんでした。このため2年生の時一年間だけの担任だったようです。麻柄トヨ(名字は『閑院宮』の教職員名簿に従う)は入れ替わりの多かった朝鮮の学校の中では長期間日出小学校に勤務し1928年6月23日には日出小学校で「勤続十年以上」の表彰を受けています。(『赤煉瓦』)
麻柄トヨ訓導(1922年)
5年3組で徳恵姫を担任した小川吉太郎訓導は1920年から26年まで日出小学校に勤務したのちに朝鮮人の教育に従事し、多くの朝鮮半島内の普通学校・国民学校の校長を歴任しています。(「京城日出小学校について」)
小川吉太郎訓導
大正15年に徳恵姫が一時帰鮮した際に開かれた学芸会では小川・麻柄訓導が尽力し、学習院在学中の徳恵姫は両訓導へ手紙を書いて学習院での行事の報告などもしていたそうです。(『京城日報』)
小川訓導は徳恵姫が学習院入学のため東京に向う当日の『京城日報』に以下のような発言を寄せています。(『京城日報』1926年3月28日)
「徳恵様は童謡に限らず一体に御熱心でした。2、3年生頃にはよく担任教師(鈴木・麻柄)から童謡を書いて見よと勧めますから、自然御趣味が出て来たものと見えて、課題の作文の終わりなどに童謡が書いてありました。日頃非常にお友達思いの方で昨年五月学級で開城へ旅行して京城に帰りついた時、横様に雨が降っていました。姫は昌徳宮からお迎えに来た馬車でお帰りになり、後で生徒たちは家に帰るのに困りましたが、後で『開城旅行』という作文を課するとその最後の一行に
「此一日はうれしいうれしい日でございました。けれども雨の中を皆さんはどうしてお帰りになったのでしょう。心配心配。」
ということが認(したた)めてあります。十二三のお子さんの気のつかない点で、やはり自然に表れる(?原版判読難)徳の光であります。」
これを読むと当時の徳恵姫がやはり「童謡」で知られていたこと。そして徳恵姫直筆の文章により彼女の「心遣い」がよく分かります。
追って書くことになりますが徳恵姫は学校関係者(校長、訓導、学友)を宮殿などにしばしば招いていましたが、これは彼女なりの日出小学校関係者への恩返しの心の発露だったと思います。
なお他の訓導では、音楽教師と思われる清水武彦訓導が「徳恵姫御作童謡発表会」でピアノの弾いており、徳恵姫らの歌う「てるてるぼうず」や「びら」の伴奏をしています。
清水武彦訓導
また学習院転入後も小川・麻柄訓導とのやりとりがあったことは書きましたが、翌年(1926年)には日出小学校が赤津基訓導を学習院に派遣して徳恵姫の現況を確認しています。
赤津基訓導
赤津訓導は学習院訪問時に関屋宮内次官(元朝鮮総督府学務局長)らから話を聞き、また運動の時間の参観をし、
「運動場でタスキ掛けとなりフットボールを一同と共にお遊びなさる様を拝しては日之出時代のお弱く拝された御体とは別人の如くに感じられた。」(『京城日報』1930年11月8日)
と証言しています。
8.校長より偉かった徳恵姫?
戦前は役人や軍人の間では
階級が絶対的に力を持っていました。
師範学校での校長でも、判任官なので制服につける金のすじが1本で、学生の父兄の中には軍人でもっと階級の上の人もいたそうで、校長と言えども立場上大変だったようです。そうした判任官の校長にしてみたら
李王家のお姫様
というのはまさに仰ぎ見なければいけない対象だったでしょう。
それをてきめんに表す証言もあります。徳恵姫と同級生だったという杉内大悟氏(当時は男女はクラスが別だったので同級生と言うことはないと思います)の証言によると
「教室内の授業中は、一般の児童と机は並べず、教卓の横に机をおいて徳恵姫は勉強していたという。祭日の場合の式典の時は校長より徳恵姫が上座に座っていたという。日本の皇族扱いにしていたのである。」(『徳恵翁主』)
ただこの前段については、鈴木ハル訓導の「(学校が選んだ学友を)姫の御机の直後左右に席を定めました」という証言(『赤煉瓦』)、また閑院宮殿下が日出小学校で授業をご覧になった際の写真で
徳恵姫の席が生徒側の最前列にあったことが分かるので、記憶違いがあるのかもしれません。しかし後半は十分に考えられることです。
なお閑院宮載仁殿下が日出小学校で台覧を行った際、徳恵姫は大山校長と共に到着された殿下をお迎えしたこと、また3年3組を訪れて徳恵姫の読方(国語の朗読ですね)を親しくお聞きになったことを見れば、
日本の皇族も徳恵姫に対して特別な配慮をしていたことが分かります。
また写真中の徳恵姫を見るとチマチョゴリを着ていますが、これは李王家の姫として正装で殿下を迎えたものではないかと思います。普段はチマチョゴリではないとの証言もありますので。
長くなるので次回に続きます。
ブログランキング参加中♪クリックしてね☆
韓国(海外生活・情報) ブログランキングへ