【日本に大切にされた徳恵姫】日出小学校は徳恵姫を尊び、徳恵姫は日出小学校を敬った(本編1) | 流じゅーざの『日韓・朝韓』

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日出小学校の赤煉瓦2階建ての校舎(1922年)

 

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<関連エントリー>

1.【日本に大切にされた徳恵姫】日出小学校は徳恵姫を尊び、徳恵姫は日出小学校を敬った(序文)

2.【日本に大切にされた徳恵姫】日出小学校は徳恵姫を尊び、徳恵姫は日出小学校を敬った(資料紹介)

 

 

バンコク在住のじゅーざです。

 

では今回からいよいよ本論に入ります。

 

以下、引用・言及している文献は下記のように略させていただきます。

 

・『徳恵姫』-本馬恭子著『徳恵姫 李氏朝鮮最後の王女』

・『赤煉瓦』-京城日出会編『わが赤煉瓦の学び舎 京城日出小学校百年』

・『悲劇の王女』-城田吉六著『悲劇の王女徳恵翁主の生涯 対馬に嫁した李王朝最後の王女』

・「京城日出小学校について」-稲葉継雄著・論文「京城日出小学校-在朝鮮「内地人」-」

・『閑院宮』-京城日出小学校編『閑院宮奉迎記念』

 

0.初めに

李徳恵姫(以下、徳恵姫、韓国では徳恵翁主)は初期の教育こそ徳寿宮内に設けられた専用の幼稚園で受けましたが、1921年4月から朝鮮在留日本人の学校であり、「朝鮮の学習院」とまで呼ばれた京城日出小学校の2年3組に転入、1925年3月に5年生を終了後に日本の女子学習院に転校するまでの間、都合4年間在籍しました。

しかしこの間の徳恵姫の日出学校での学校生活についてはに日本の徳恵姫研究の集大成と言われる『徳恵姫』でさえもわずかに1ページちょっとしか書かれていません。(残りは命名の件と李垠夫妻の渡鮮に関連する事柄だけ)

この部分について李王(純宗)の妹を迎えた日出小学校がどのように徳恵姫を待遇し、彼女がどのような学生生活を送り、彼女がどのように日出学校関係者に接したかをつまびらかにしてみたいと思います。

 

1.京城日出小学校について

京城日出小学校(京城日出小学校、本により「日の出小学校」などと表記)は最終的に京城日出公立国民学校として終戦後の閉校(1945年9月24日)を迎えるまで、名称が何度も変わっているので『赤煉瓦』での呼称に基づき「京城日出小学校」(時に略して「日出小学校」)と書くことにします。

京城日出小学校の前身は朝鮮王朝末期の1889年8月に山口太兵衛氏が日本人居留民の子弟8,9人を集めて作った小さな寺子屋のような学校が始まりでした。当時は既に先に開港していた釜山(1877年5月)や元山(1884年)、仁川(1885年)に次いで4番目に朝鮮内に作られた学校です。(『悲劇の王女』で城田が「日の出小学校は、日韓併合後ソウルに日本人教育のために建てられた小学校である」と書いているのは誤り。)

学校は日本居住者の増加にともなって規模が大きくなると共に運営者と敷地が移り変わりましたが最終的に1906年11月に『赤煉瓦』の題名にもなった煉瓦造2階建て校舎が日出町に完成し、「スエズ以東最大の小学校」(『赤煉瓦』)と呼ばれるほどになりました。

この敷地は朝鮮総督府にもほど近く、総督府の高官の子弟などが入学、また一部の朝鮮人両班の子弟も入学しました。(表向きは途中から朝鮮人の入学は受けなくなっています)

さらに伊藤博文統監をはじめとする歴代の朝鮮統監・総督の訪問、さらに1907年の皇太子(後の大正天皇)台覧を含め、小松宮依仁親王(1896年)、閑院宮載仁親王(1922年)、高松宮宣仁親王(1928年)の訪問を受け、まさに名実ともに「朝鮮の学習院」としての格式を保ってきました。

 

2.第5代校長大山一夫

徳恵姫が転入した際の校長は日出小学校校長としては第5代目になる大山一夫校長(在任期間は1919年8月~1930年4月)。(なお校長の前に2代の「校長心得」時代有り)

 

大山一夫校長

 

東京、朝鮮の教職を歴任した大山は日韓併合後に朝鮮の鎮南浦普通学校校長を経て、約5年間京城府に勤め、京城府学務主任から日出小学校校長に転出しました。校長在任期間は第4代の河合精一郎に次ぎますが、「大山の足跡は、歴代校長中最も高く評価されている」(「京城日出小学校について」)。

大山の在任中には今回述べる徳恵姫の入学があり、さらに閑院宮、高松宮両殿下の台覧をこなし、学校敷地を拡張し、1929年には「創立四十周年」記念式典も無事に行っているので当然かもしれません。

 

3.超VIPとして徳恵姫を迎える

その大山校長が徳恵姫を日出小学校に迎えるために行ったことが、

 

  校長室を徳恵姫の控室として作り直すことでした。(汗)

 

徳恵姫の転入直後に2年3組担任として徳恵姫とその学友たち(後述)を迎えた鈴木ハル訓導(「教諭」の古い呼び方)が京城日出会のクラス会誌の第2号に書いたところでは、

 

 「徳恵姫のご入学なさいましたのは2年生の始めで、教室内の姫の机や腰掛は粟色塗りのものになり、トイレも別に建てられました。大山校長は校長室を姫、学友の閔龍児・韓孝男(注:女子です)女官二人即ち五人の控室とされ、校長御自身は教員室に移られました。」(『赤煉瓦』)

 

徳恵姫の入学に合わせて大山校長が校長室を徳恵姫用に明け渡したうえ、トイレも新設、机や椅子も変えると…

 

  まさにVIP待遇…

 

時の李王(純宗)の妹ですが、まさに皇族並いや日本の学習院での皇族待遇以上の待遇を用意したことになります。

 

4.徳恵姫の控室はここ?

これは純粋に推測ですが、この徳恵姫の控室は日出小学校の2階の東南隅の部屋だったのではないかと思います。この部屋は閑院宮載仁親王が日出小学校での台覧を行った際に見親王の控室として使われた部屋です。

 

 

この部屋は「南に南山の緑影を一望のうちに収め」る最も良い位置にある部屋だったそうで(『閑院宮』)その部屋が眺めも最もよく、また徳恵姫が当時所属していた3年3組の教室の至近の位置にあるからです。(間の「随員方休憩室」は写真を見ると黒板もあるし、控室にはそぐわない気がします)

 

5.選ばれた「ご学友」

徳恵姫の日出小学校転入に伴い、合計7人の「ご学友」が選ばれました。

2人の朝鮮児童は以下の2名。

 ・閔龍児-閔妃と同じ余興閔氏の閔泳瓚の娘。閔泳瓚は日韓合併後に朝鮮総督府中枢院参議にもなった人。

 ・韓孝男-日韓合併時に総理大臣だった李完用の甥である韓相龍の娘。

この2人は徳寿宮に特設された徳恵姫用の幼稚園の時代からの学友で(『京城新聞』1930年11月3日)、登下校時も徳恵姫と一緒に行動し、同じ控室を利用しました。ただし同い年の閔龍児は徳恵姫と同じクラスでしたが、韓孝男は年齢が一つ上だったので学年も違いました。(『閑院宮』)

 

この2人は李王側で付けたものと思われますがそれとは別に日出小学校側でも5名の日本人子女を「ご学友」として選んだことを担任だった鈴木ハル訓導(教諭)が記録しています。(『赤煉瓦』)それが以下の5名です。

 ・門馬喜久子(旧姓渡辺)-渡辺博士の娘

 ・小牧民子(旧姓武田)-武田視学令の娘

 ・酒井和(知?)子(旧姓松村)-松村殖産局長の娘

 ・高橋下枝子(旧姓末松)-?

 ・杉浦喜美子(旧姓碓井)-碓井氏は逓信局勤務

この5名については1922年に3年3組で徳恵姫と同級生だったことが『閑院宮』によって確認できます。

このうち、亡くなっていた酒井和(知?)子(名前は『赤煉瓦』では知子、『閑院宮』と『京城日報』では和子)以外の4名が『赤煉瓦』に徳恵姫との思い出を書いています。彼女らの『赤煉瓦』での証言が日出小学校時代の徳恵姫の生き生きとした表情を伝えてくれています。

また上記5名の他では他に『京城新聞』では京城府尹関水武氏(役職は1930年のもの)の令嬢「三保子」の名前を挙げています。彼女も3年3組で同級生でした。

日出小学校として信頼のできる官僚などの子女を徳恵姫の学友として指名したことがうかがえます。

 

次回に続きます。

 

 

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