三笠宮殿下薨去… 「童謡の宮様」として大正時代の童謡ブームを牽引 | 流じゅーざの『日韓・朝韓』

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バンコク在住のじゅーざです。

 

すでに多くニュースが流れていますが、皇族のおひとりである三笠宮崇仁親王殿下が今朝8時34分に薨去されました。

 

  謹んで哀悼の意を表します

 

オレとしては三笠三殿下といえば、明治末から昭和初めの童話・童謡ブームの中での童謡ブームの火付け役としての

 

  童謡の宮様

 

のイメージが非常に強くあります。まあ現在勉強中のところですので。

 

それまで教育の一環としての文部省唱歌の時代から、大正デモクラシーの文化の波を受け、より子供に寄り添う形の童話そして童謡が発達した中、当時まだ澄宮と呼ばれていた殿下が

 

  「世間をあげて童謡というものを知るようになったのは、澄宮が童謡を作られた記事が新聞紙上に大きく報じられたことがきっかけである。」(BY金田一春彦)

 

とも評されるまでになりましたが、実際はすでに1918年に7月に鈴木三重吉が雑誌『赤い鳥』を発行して以来、翌1919年には『おとぎの世界』、『こども雑誌』、『金の船』などが陸続として創刊、世間での童話・童謡ブームが醸成されており、その中に皇族からもいかにも子供による口語調の童謡(実際は七五七五調の短詩の感じ)が発表されたこともあって世間の注目を集めた訳ですね。

 

澄宮の童謡には当時作詞家の野口雨情と組んで童謡でヒット曲を作っていた本居長世が作曲、長世の娘で当時すでにアイドルとなっていたみどり・貴美子姉妹が歌うなど、まさに相乗効果をもって大正時代に童謡の最盛期を作り上げることになりました。1922年には『澄宮殿下御作童謡集』が出版されています。(上の御作が『皇太子殿下(昭和天皇)御成婚奉祝童謡集』(1924年)より)

 

ちなみに朝鮮の高宗の末子である李徳恵姫(徳恵翁主)の詞が新日本音楽の宮城道雄(箏の家元で、多くの名曲を残す)や黒澤隆朝(水田詩仙の名で「森の音楽家」の日本語作詞)らによって作曲を付けられ、日本や朝鮮で広く紹介され、「童謡の姫君」と言われたのも澄宮の「童謡の宮様」との対比として取り上げられた部分があると思います。

 

これでまた一つの時代の証人が亡くなってしまったかと思うと寂しいものがありますね。

 

うちのブログではこうした童話・童謡の話題について今後も取り上げますし、その際に澄宮こと三笠宮殿下についても言及することがあると思います。

 

 

ちなみに皇統の中における三笠宮殿下の位置は以下の図をご覧ください。

 

 

すでに三笠宮殿下からの男系のご子孫は絶えており、残るのは三笠宮と高円宮の女王様たちだけになっています。三笠宮殿下の薨去により、残る皇位継承権者は

 

 継承権1位:皇太子徳仁親王

 継承権2位:秋篠宮文仁親王

 継承権3位:秋篠宮悠仁親王

 継承権4位:常陸宮正仁親王

 

継承権4位の常陸宮殿下は1935年の生まれですでに80歳を超えていらっしゃるので現実問題としては皇太子殿下と秋篠宮の2殿下ということになります。
 

こんかい終わり

 

 

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