「童謡の天才」改め「童謡の姫君様」…少女期の李徳恵(徳恵翁主) 逆にもっと早く宗武志と… | 流じゅーざの『日韓・朝韓』

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李徳恵御製、黒沢隆朝作曲の「びら」

 

 

バンコク在住のじゅーざです。

 

現在韓国で観客動員300万人を突破する大ヒット作になっているのが

 

  トンデモ反日映画『徳恵翁主』である

 

<関連過去エントリー>

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そんなトンデモ映画『徳恵翁主』のあらすじのなかで

 

  時間が流れて1925年。14歳になった徳恵翁主は、少年がされた成長したと再び会い、ピアノ演奏を一緒にするなど、しばらくいきいきとした雰囲気を演出する。徳恵はハンテクスがイベント用に着物を送り、自分は洋装を着てボクスンイに着物を加えるなどかなりしっかりしている姿を見て女性だ。童謡を作って子供たちに教え、子供たちの面倒を見、ハングルを教えたいとするなど、それなり信念を持った翁主様に成長したようだ。

 

という部分があるのだが、この中で

 

  童謡を作って子供たちに教え、子供たちの面倒を見、ハングルを教えたいとする

 

という部分がある。

 

この中で唯一事実があるとすれば

 

  童謡の「作詞」をした(作曲は別人)

 

というところだろう。ちなみに過去エントリーでも書いたが李徳恵(徳恵翁主)が作詞した歌は

 

  現存する3曲すべて日本語なんだが…

 

 

  日本語の歌を朝鮮の子供たちに教えていたってことでOK?>映画『徳恵翁主』の監督さん

 

実は李徳恵(徳恵翁主)の作詞の才能については、多胡吉郎氏が『朝鮮王朝五百年』(角川書店)で、李徳恵(徳恵翁主)について

 

 「実は、朝鮮王朝の血を引く少女が抱えた詩才は、現地の日本人教育者や児童文学者たちから注目され、

 

  「童詩の天才」

 

とまで讃えられた。」

 

とし、実際に

 

 「宮城道雄や黒澤(ママ)隆朝といった日本人の作曲家が、徳恵翁主の童詩に曲を付けている。」

 

としている。

 

この「童詩の天才」と呼ばれた、という部分は恐らく多胡氏が書籍の中で挙げていない典拠があると思うし、オレもすでに目をつけた文書もあるのだけど、

 

  哀しいかなタイにいる身では簡単に確認できない( ノД`)シクシク…

 

……………以下、追加………………

 

多胡吉郎氏は李徳恵(徳恵翁主)のことを

 

  「童謡の天才」

 

と呼ばれていたと書いているが、原典を引用した書、坪井秀人著『感覚の近代 声・身体・表象』(名古屋大学出版会、2006年)によると、1925年5月の雑誌『金の星』7巻5号に同誌の野口雨情が1924年5月に京城を訪れた際に

 

 「(徳恵姫が)親しく謁見の上御自作の童謡2篇お書きくだされました。」

 

とあり、その際に書いた童謡のうちの1篇が「雨」だったことが書いてある。その文章では

 

  「童謡の姫君様」

 

と称されていた、と書いているので

 

  「童謡の天才」を「童謡の姫君様」に改めます。

 

なお当時澄宮(崇仁親王、のちの三笠宮)が「童謡の皇子」と呼ばれていたのだが、この辺の当時の音楽界のムーブメントがあるのだが、その辺はオレも勉強してから書いてみたい。簡単に書いておくと新日本音楽などの運動が童謡や家庭踊・童謡踊などに乗っかって勢力を拡大しようとした、という感じの様だ。

 

音楽史に興味のある方は

 

  坪井秀人著『感覚の近代 声・身体・表象』

 

を読んでみましょう。

 

この野口雨情は「新日本音楽」派として宮城道雄らと一緒に活動していたのだが、上の記事では(1924年に歌詞をいただく)では下の考証結果と異なってしまう。

 

  原本の「金の星」については復刻版を近々入手する予定なので、そこで改めて確認、検証したい。

 

ってオレは

 

  ( `Д´)ノ音楽史家やないがな!!!(むしろ完璧専門外)

 

なお坪井秀人氏は李徳恵(徳恵翁主)の経歴の参考書として本馬恭子『徳恵姫』を参照としつつも

 

 「ただし、本馬の評伝には彼女の童謡創作については触れられていない」(きっぱり)

 

と書いているのは秘密である。(おいおい)

 

……………追加終わり………………

 

 

ので、その部分の検証は今後になるのだが、しかしオレも最近初めて知ったが、

 

  李徳恵作詞の歌のレコードがビクターから発売されていたのだ。

 

これはさすがに驚いた。

 

嘘ではない。興味のある方は、

 

  国会図書館に行けばその歌を聞くことが出来る。

 

このレコードの収録曲は「蜂」と「雨」という2つの歌で

 

 作詞:徳恵姫御製(当時)

 作曲:宮城道雄

 歌:宮城数江

 演奏、箏(こと):宮城道雄

 演奏、尺八:吉田晴風

 

という和風の曲のようだ。

 

  ビクターから1929年7月に発売されている。

 

この宮城道雄という作曲者は「筝曲の天才」と呼ばれた人で、多くの作曲と演奏を手掛けている。

 

もし

 

  金はあり余っているが国会図書館には行きたくない

 

という奇特な方がいらっしゃれば1998年8月に発売された

 

  宮城道雄作品大全集(CD13枚組)

 

を購入すれば

 

 「蜂」は収録されているので是非聞いてみていただきたい。

 

もっとも多くの曲が収められている中、李徳恵(徳恵翁主)作詞の歌は1曲だけので、

 

  地方から上京するコストを考えても国会図書館で聞く方がコスパがいいのは間違いない。

 

このレコードが発売されたのは1929年で、李徳恵(徳恵翁主)が東京に留学した後の話だが、実際に作詞されたのは京城の日の出小学校時代なのは間違いがない。安藤政輝「宮城道雄全作品連続演奏会」記録では両曲の作曲年代を

 

  1923年

 

としているのだが、「雨」の方は徳恵姫御製として、『金の星』(金の星社)に掲載されたようで復刻版に蒐集されているのだが、同じく収めされている歌の作詞者は

 

  竹久夢二、野口雨情、島崎藤村など錚々たるメンバーである。

 

この元の雑誌の発売が大正11年=1922年になっているので、作詞されたのもその時期ということになる。

 

まあ

 

  作詞・発表が1922年で、作曲が1923年

 

と言うところだろうか。

 

しかし、いかに王公族による御製とはいえ、

 

  若干10歳の少女の作詞がこうした本に載るとはすごいことだと思う。

 

どのような経緯で紹介されたのか非常に興味があるのだが、今となっては突き止めるのは難しいだろう。

 

また上に写真を上げた冊子の曲『びら』は、実は映画『徳恵翁主』の原作である

 

  権丕暎著『朝鮮王朝最後の皇女 徳恵翁主』にも収録されている。

 

もっとも、この日本語版は韓国語で書かれたものをきちんと文献を確認して翻訳したものではないので、この小説の日本語版の日本語が原文と同じかは

 

  はなはだ怪しい。

 

なんせ宗武志作の詩『さみしら』(本馬恭子著『徳恵姫』に全文が引用されている)の題名さえも『寂しさ』と逆翻訳しているくらいだからだ。

 

なので、詩の詳細についてはすでに発注している本が手元に届いてから紹介するが、上の冊子に見えるようにこの「びら」という歌は大正14年8月より前に作詞され、黒沢隆朝(楽器の研究などで李朝の楽器なども調査している)が曲を付けたものだ。

 

実は、さらに調べると

 

  德惠姬御作童謠發表會

 

という催し物が1923年末頃に行われていたのが判明した。この記事は、朝鮮総督府の発行している

 

  雑誌『朝鮮』105号(出版年:1924年1月)

 

に掲載されている。この時期にはまだ「びら」は出ていないので恐らくは

 

  「雨」や「蜂」が披露されたのだろう

 

が、これも

 

  夏休み明けにでも東京を訪問して国会図書館で記事の内容を確認してみたい。

 

本記事は2頁に及ぶので、当時の李徳恵(徳恵翁主)の動静について知る

 

  非常に貴重な史料だと思う。

 

特にこの日の出小学校時代の李徳恵(徳恵翁主)については、本馬恭子女史の『徳恵姫』でもほとんど書かれていない部分なので、

 

  李徳恵(徳恵翁主)研究家のオレ(ええ?)

 

としては非常に興味深いものである。

 

それにしてもこれだけ詩才があるのであれば、

 

  詩人としてまた作詞も行っていた宗武志

 

ともっと早く(病気の発病前に)出会っていたら、そしてもっと胸襟を開いて接し合えていたら

 

  すごいお似合いのカップルになっていたのではないか…

 

などと思ってしまう。しかし如何せん詩作に興じるような彼女の繊細な心がその境遇に耐えられなかった、ということなのか…

 

  悲劇の王女だったことは間違いない

 

のだが、その原因は

 

  現代の韓国人の考える理由とは違うけどなっ(゜Д゜)!!!

 

ホント、李徳恵(徳恵翁主)については日本では対馬の人間でさえも

 

  本馬恭子『徳恵姫』が集大成

 

という感じで受け止めてしまっているのだが、血縁・地縁がまったくないオレでも『徳恵姫』で取り上げてこられなかったこれだけの内容に迫れるのだから

 

  いやあ、

 歴史探求ってホントに面白いですね♪

  (お前は水野晴郎さんか!)

 

 

さて、

 

今回のエンディングテーマはこれで♪

 

『海のトリトン』

イルカの遊泳方法からしてトリトンは深刻な

「イルカ酔い」

に襲われたはずである(BY柳田理科雄)

 

 

こんかい終わり

 

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