李方子の手記と実情(後編)-(連載)徳恵翁主&李王妃方子殿下…「政略結婚」批判は妥当?(10) | 流じゅーざの『日韓・朝韓』

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―朝鮮(韓国・北朝鮮)についてはまだ勉強中なので教えてね、てへぺろ♪―

 

梨本宮ご一家(後ろが守正王、前列左から伊都子妃、規子女王、方子女王(当時))

 

バンコク在住のじゅーざです。

 

現在韓国ソウルの観光地「宗廟」に行くと日本人ガイドが

 

  英親王(李垠)は日本に連れていかれて梨本宮方子と「政略結婚」させられ…

 

と説明され、昌徳宮に行くと楽善斎に行ったところで日本人ガイドが

 

  徳恵翁主(梁徳恵)は日本に連れていかれて宗武志と「政略結婚」させられ…

 

と言われますが、果たして実態はどうだったのか???

 

それをこのシリーズで考えてみたいと思います。

 

なお、今まで混乱してきた人名表記は、「敬称なし」で、統一することとします。よって、李王垠殿下は李垠、李王妃方子妃殿下は李方子、梁徳恵姫は梁徳恵、李太王高宗殿下は慣例通り高宗、李王純宗殿下は同じく慣例通り純宗と表記することとします。

 

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第9回から引きついづいて今回も

 

  李垠・李方子夫妻の結婚について考えていきます。

 

今回は、この結婚の

 

  真の当事者

 

である、梨本宮伊都子と仲介役であった宮内庁宗秩寮事務官小原せん吉(せん=馬ヘンに「全」)の回顧談を用いてこの結婚がどのような経緯で誰の発願で行われたか見てみましょう。なお前者は小田部雄次が『李方子』で、後者は新城道彦が『朝鮮王公族』で取り上げたものです。

 

実は李方子が自身の婚約話について新聞で知った8月3日を遡ること9日の7月25日の伊都子の日記には

 

  「宮内大臣(波多野)参られ、伊都子に逢たき旨故、直に対面す。外にはあらず、兼々あちこち話合居たれども色々むつかしく、はかばかしくまとまらざりし方子縁談の事にて、極内々にて寺内(朝鮮総督)を以て申こみ、内実は申こみとりきめたるなれども、都合上、表面は(大正天皇陛下)陛下思召により、御沙汰にて方子を朝鮮王族王世子垠殿下へ遣す様にとの事になり。同様、宇都宮なる(梨本)宮殿下(方子の父、守正王)すでに申上げたりとの事。有難くお受けして置く。しかし発表は時期を待つべしとの事。」(『朝鮮王公族より』)

 

とあり、梨本宮伊都子自身が

 

  「兼々あちこち話合居たれども色々むつかしく」

 

結果として李王家に話を持って行った、と告白しています。

 

ここで当時の状況を見てみると、梨本宮家自体が王政復古後に僧籍から還俗した梨本宮守脩(もりおさ)親王によって明治元年(1868年)に建てられた新しい宮家だが継嗣に恵まれず、実質2代目だった菊麿王は養子、菊麿王が山階宮本家を継いだ後に継嗣になった守正王も養子だった。しかし旧皇室典範が成立した際に養子による宮家の継承が出来なくなっていたのに対して守正王も男子に恵まれず、子供は2人とも女王だったわけですね。(一人が方子、妹は規子)なので、いずれは梨本宮家は廃絶する運命だった訳で、その娘たちは

 

  皇族と結婚出来れば皇族の地位を維持

 

しかし

 

  華族と結婚すれば皇族ではなく臣籍降嫁

 

という形になる訳で、両親である守正と伊都子、特に伊都子はこの2人の嫁ぎ先捜しに非常に執心していたわけです。

 

  どうも伊都子は「身分」に対する意識が非常に厳格だったようで、

 

後年今上天皇陛下が民間出身の正田美智子と結婚した際の日記に

 

 「もうもう朝から御成婚発表でうめつくし、憤慨したり、なさけなく思ったり、色々。日本ももうだめだと考えた。」(『朝鮮王公族より』)

 

と嘆くくらい、皇族の家格の維持に執着を見せていた方なので、旧「皇族典範」で

 

  皇族の女性は皇族と華族と結婚出来る

 

と規定されているとはいえ、

 

  出来るだけ「皇族」と結婚させたい

 

という欲求が強かったわけです。

 

しかし皇族との婚姻は「色々むつかし」かったため、

 

  次善の策

 

として、日韓合併によって

 

  皇族に準ずる

 

と暫定的に規定された

 

  朝鮮王公族の王世子である李垠に目を向けたようです。

 

新城道彦氏は『朝鮮王公族』の中で、新資料として皇族や華族の事務全般をつかさどる宮内庁宗秩寮の事務官であった小原せん吉の回顧談である『男爵小原せん吉氏談』の中から、伊都子の行動に言及した記事を見つけています。それによれば

 

  婚約報道(1916年)の2、3年前

 

に小原が梨本宮家を訪問した際に、伊都子から

 

 「若し成立するものなれば、王女方子女王を王世子(李垠)の妃と為すことは如何?」

 

と話し出したそうで、すでにそれ以前に伊都子は伯父の藤波言忠(ことただ)子爵や母である鍋島栄子(ながこ)から李王家との縁組を進められていたらしいんですな。

 

早速翌日から動き出した小原は宗秩寮総裁(倉富勇三郎か?)、宮内大臣(波多野敬直)に報告して、上京中だった寺内正毅朝鮮総督にも相談しているので、

 

  実質この時点でこの縁談は進み始めたと言えるでしょう。

 

ただしその後、寺内総督の方で保留とされており、守正王が皇居に参内した際に大正天皇から「方子女王は王世子と嫁すること確定したりや」と下問されて困ったこともあったようです。その間、1915年には方子の耳にもこの件は噂として耳に入ったことが『流れのままに』にも記載がありますが、しかし実際に話が進むには1916年を待たなければなりませんでした。

 

新城氏の検証によれば1916年7月に寺内朝鮮総督が上京してから話が進み始め、宮内大臣の命を受けた梨本宮家付事務官が当時宇都宮に駐屯していた守正王を訪問して方子と李垠の婚儀について進める話をし、伊都子は「有難く御受けして置く」と承諾の意を示したことで7月25日の伊都子の日記にある波多野宮内大臣の梨本宮家訪問とあいなった訳です。(『朝鮮王公族』)

 

この時点で

 

  すでに大正天皇による結婚への勅許も李王家の同意も出ており、

 

7月29日には守正王と伊都子は宮中に参内し、

 

 「此度、天皇陛下より李王世嗣子に対する方子の縁組に付、内々ながら御礼のため拝謁遊ばさる。又、御内儀に参り、皇后陛下(貞明皇后)にも御礼言上して退出し…」

 

という手続きを踏んでいるので、方子は新聞発表の時点まで

 

  親(伊都子)から直接決まった話を聞くことが無かっただけで、婚儀は決定していた

 

訳ですね。

 

どうも伊都子には朝鮮の王族へ嫁ぐということを娘である方子へ言いにくかったようで、ぐずぐずしているうちに新聞発表になった、というのが真相だった訳です。

 

もっとも、そのことが方子の感情を傷つけたことへの負い目が伊都子にはずっとあったためか、

 

  後日発刊された伊都子の自伝などには、「天皇の思召しで…」という娘への言い訳を続けており、

 

このためもあってか

 

  方子が李垠へ嫁いだのは天皇家が朝鮮王族の血を絶えさせようと日本人と結婚させたのだ

 

という妄説が流布する一因になったわけです。

 

しかし実態は上に書いてきたように、梨本宮伊都子が娘の嫁ぎ先の家格を出来るだけ高く維持させようとの「お家の格を守る」

 

  上流階級の本能に動かされたものだった

 

というのが真相だった訳です。(後年発行された本の記述よりも、実際の日記原本に基づいて書かれた内容の方が真実に近いのは当然のことですし、他の資料によっても裏付けられているのですからこれは間違いありません。)

 

まあそれが

 

  大日本帝国の利益=日鮮融和にも合致した

 

のは間違いありませんけどね。

 

また日本は当時すでに

 

  西洋的な法治国家に向かっており、天皇・皇族の行動さえも「皇室典範」に規定されていました。

 

(このため、皇族(方子)と王公族(李垠)の結婚に際して「皇室典範」の改訂が図られました。結果は増補で決着)

 

ちなみに日韓合併後に李王家(旧大韓帝国皇室)は、

 

  皇族に準じる

 

と暫定的にされ、その後「王公家規範」の成立によって、正式に日本のシステムに組み込まれるわけですが、朝鮮の続けてきた

 

  儒教的支配方法

 

と、日本が確立しつつあり、推し進めていた

 

  法治主義統治

 

 

  非常にかけ離れていた現実

 

があり、この意識の差、そして「皇室典範」「王公家規範」などによる王公族の運営も、それまでの朝鮮式のやり方とかけ離れていたことが、法律および日本の慣行に従う事への朝鮮民族の抵抗感を醸成したのではないか、と思っています。

 

民衆レベルの端的な例としては、以前書いた朝鮮総督府による土地調査に対して「所有田」を隠そうとして申告しなかった結果、田を没収されてしまった人なども、

 

  日本の法治主義への無理解・日本側の朝鮮の旧慣への無理解

 

によって起こされたもので、まあぶっちゃけ

 

  朝鮮社会の法治主義がまったくといっていい程機能していなかった現実

 

を表しているものでしょう。

 

こうした法規・規範・慣例の中に朝鮮王公族も取り入れられて行く訳ですが、そこで生まれた悲劇が

 

  次に述べる宗武志・徳恵夫妻の悲劇につながる

 

と思います。

 

しかし次回は一端、

 

  韓国では悪役とされている伊藤博文の朝鮮観

 

について書いてみたいと思います。それこそが、オレが上で書いた日本と朝鮮の統治に関する認識の違いがはっきり出てくるものであり、また逆に

 

  伊藤博文の朝鮮に対する愛情が垣間見える話になると思います。

  朝鮮人・韓国人は絶対に認めないだろうけどな!

 

今回終わり

 

<参考文献>

権藤四郎介『李王宮秘史』近沢印刷、1926年

李方子『流れのままに』啓祐社、1984年

小田部雄次『李方子 一韓国人として悔いなく』ミネルヴァ書房、2007年

新城道彦『朝鮮王公族』中公新書、2015年

本馬恭子『徳恵姫 李氏朝鮮最後の王女』葦書房、1998年

瀧井一博『伊藤博文』中公新書、2010年

浅見雅男・岩井克己『皇室150年史』ちくま新書、2015年

小田部雄次『皇族』中公新書、2009年

金用淑『朝鮮宮中風俗の研究』法政大学出版部、2008年(韓国での出版は1986年)

 

 

次回に続く

 

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