【仏国寺の真実】仏国寺は清正に滅ぼされたわけでもなく、朝鮮王の政策でも滅びはしなかった(後編) | 流じゅーざの『日韓・朝韓』

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―朝鮮(韓国・北朝鮮)についてはまだ勉強中なので教えてね、てへぺろ♪―

 

 

 

バンコク在住のじゅーざです。

 

韓国のユネスコ世界遺産

 

  「仏国寺と石窟庵」

 

 

  仏国寺

 

この寺について、日本語のウィキペディアを読むと

 

李氏朝鮮太宗による1407年(太宗7年)の仏教弾圧の際、存続を許された88寺院の中に名前がなく、既に荒廃しており廃寺になったようである。世宗による1424年(世宗6年)の仏教弾圧の際、存続を許された36寺院の中にも名前がなく、引き続き廃寺のままだったようである(朝鮮の仏教#李氏朝鮮時代の仏教弾圧)。」

 

と書いているんだが、前回挙げた

 

  『仏国寺古今創記』

 

によれば、

 

  仏教を弾圧したはずの世宗が1448年に仏国寺に「仏法僧」の印を下賜している。

 

世宗の亡くなったのは1450年で、1448年と言えばその晩年、50歳を過ぎた。朝鮮王朝がその支配のために強力に推し進めた儒教だったが

 

  儒教は宗教ではないため心の救済は出来ないのだ。

 

世宗のような英主でも迫る命の終わりを感じて、

 

  仏教に救済を求めなければやっていられなかった

 

ということのようだ。

 

さらに同書によると、仏国寺では朝鮮王朝時代に(少なくとも)下記の回数のイベントが発生している。

 

・世宗(在位:1418-1450)  3回

・成宗(在位:1469-1494)  2回

・燕山君(在位:1494-1506)  1回

・明宗(在位:1545-1567)  1回

・宣祖(在位:1567-1608)  2回

・光海君(在位:1608-1623)  1回

・仁祖(在位:1623-1649)  5回

・孝宗(在位:1649-1659)  1回

・顕宗(在位:1659-1673)  3回

・粛宗(在位:1674-1720)  17回

・英祖(在位:1724-1776)  15回

・純祖(在位:1800-1834)  1回

 

特に粛宗の時には仁顕王后が施主として色々な物を賜与している。(1681年)

 

またわかるように、文禄慶長の役(宣祖の時代)に「兵火で焼けた」仏国寺もその後の寄進で、多くの建物や廊下が再建され、様々な仏像も寄付されている。

 

しかし、1903年に関野貞教授が訪問した際には、残っていたのは大雄殿を含む2、3の建物で、廊下もほとんど残っていなかった。

 

  宣祖の治世以降に多くの建物が再建・新築(!)されたにもかかわらず

 

である。

 

つまり、朝鮮王朝の太宗や世宗の命令で簡単に多くの仏寺が棄却されたわけではなく、いくつもの寺院が残っていた、時には王族の保護も受けていた。

 

しかし、

 

  朝鮮王朝の末期になるにつれて仏教信者の数の減少がボディーブローのように効いて寄進をするような高位高官、地方長官も少なくなって荒廃して行った。

 

のではないかとオレは考えている。

 

1911年に朝鮮総督府が寺院等を管理するために寺刹令を発布した際確認できたのが、

 

  本寺30、末寺1371寺院あった

 

というのだが、日本による仏教圧迫解除から何年もたたないのにいきなり寺の数が増えることもないと思われるので、

 

  それなりの数の朝鮮仏教寺院が生き残っていた。

 

と考えるのが妥当だと思う。

 

まあ朝鮮王朝末期に大院君が書院を整理した際も、なんやかやで整理指定を免れて存続した書院があったくらいだし、面従腹背もありありの朝鮮の人たちなので

 

  太宗や世宗の廃寺の指令も徹底されなかったんだろうねえ…

 

こんかい終わり

 

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