#69-2 三木城付城群-2 | 中川藤兵衛尉の城巡り日記

中川藤兵衛尉の城巡り日記

摂津国在住の城郭愛好家による城巡り報告です。誤りなどございましたら、正しい情報を頂けると幸いです。手書き縄張り図以外は、画像転載禁止とします

 続きです。三木城包囲網、反時計回りに今度は北を見ていきましょう。現在の中国自動車道沿いに幾つかの付け城が造られたのです。

 -三木城-

 

 -包囲網武将配置図-

 

 一つ目は久留美村山上付城です。ここは非常に小さい付城だったと見られています。後に羽柴政権下で佐和山城主となる堀尾小太郎吉晴が守備したと伝わります。現在も中国道の北側にひっそりとその一部が残っています。残念ながら、バイクを置く場所が無かったので、中には入れませんでした。

 -久留美村山上付城-

 

 -参考:佐和山城-

 

 二つ目は慈眼寺山城です。「慈眼寺山ノ上付城跡」とも言いますが、ここは三木市文化研究資料に従いましょう。東から南西まで一睨み出来る展望性に優れた付城です。有馬法印こと有馬源次郎則頼が入城しました。三好政権や別所氏に従い、羽柴政権下では淡河城や三田城の城主となった人物です。

 -参考:三好政権の首都・飯盛山城-

 

 -参考:淡河城-

 

 -参考:三田城-

 

 それでは、実際の城を見ていきましょう。先ずは縄張り図から。

 -手書き縄張り図-

 

 この城も中国道の脇にあり、車を数台置ける場所が確保されています。

 -登城口-

 

 ここから坂と階段とを上ると、主郭である曲輪Ⅰに着きます。礎石建物が建っていた南端には、木碑が設けられています。

 -曲輪Ⅰ-

 

 -三木城合戦砦址碑-

 

 -慈眼寺裏山砦跡碑-

 

 前述の通り、ここからの眺めは最高です。正面に見える連続した斜めの屋根が三木市文化会館なので、監視対象の三木城を完全に捉えています。

 -展望-

 

 曲輪Ⅰへ入る階段のやや坂下、道の反対側には曲輪Ⅲの虎口が開いています。段差が大きく、入ることは能いませんでした。

 -曲輪Ⅲ虎口-

 

 曲輪Ⅰの帯曲輪を伝って反対側に回ると三叉路となり、左に行くと曲輪Ⅳが、右に行くと曲輪Ⅴがあります。これらは共に、谷に設けられた雛壇状曲輪群で、軍勢の駐屯地と考えられています。

 -曲輪Ⅰ帯曲輪北西分岐-

 

 -曲輪Ⅳ-

 

 -曲輪Ⅴ-

 

 三つめは、久留美村大家内谷上付城です。「大家内」の部分の読みは「おがち」です。南北の大きな二つの区画に別れ、南側で下段の曲輪Ⅱは更に細かく階層構造になっています。加藤権兵衛尉光泰が城主を務めました。後に近江高島城主、勘気を蒙っての大和郡山城での蟄居を経て佐和山城主となる人物です。

 -遠景-

 

 -内景-

 

 -参考:高島城-

 

 -参考:郡山城-

 

 ここまでが中国自動車道沿い。最後に、三木高等学校の東側にある跡部村山ノ下付城です。土塁と横堀とからなる単郭の城と、その上手に駐屯部がある二重構造であることが発掘調査の結果、分かりました。城主は津田七兵衛尉信澄です。織田軍総帥・織田前右大臣兼右近衛大将信長の甥です。高島城主であり、本願寺勢退去後の大坂本願寺の城代を任された人物です。

 -参考:織田政権の首都・安土城(津田信澄邸跡)-

 

 -参考:大坂本願寺-

 

 と三木市は公式に発表していますが、上の駐屯部を「跡部村山ノ上付城」とする考えもあります。この付城の守将は、包囲網武将配置図に依ると、漫画の主人公にも抜擢されている仙石権兵衛尉秀久です。

 -跡部村山ノ下付城-

 

 -同駐屯部(又は跡部村山ノ上付城)-

 

 北の付城に関しては以上です。次頁に於いて、南部の付城をご案内します。閲覧ありがとうございました。