中川藤兵衛尉の城巡り日記

中川藤兵衛尉の城巡り日記

摂津国在住の城郭愛好家による城巡り報告です。誤りなどございましたら、正しい情報を頂けると幸いです。手書き縄張り図以外は、画像転載禁止とします

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 では、本丸に入りましょう。

 

 現在の本丸跡には、県庁や議会議事堂、警察本部などがあります。その為、福井県庁は「日本一堅固な県庁」と称されています。

 

 写真を貼る前に、先ずは地図から。

 -地図-

 

 内堀から見ていきます。南堀に架かっているのが御本城橋です。ここが大手で、二の丸と本丸とが繋がっています。ここの本丸側は桝形になっていて、一の門が御門、二の門が瓦御門と呼ばれています。

 -御本城橋・御門-

 

 

 -御門櫓台(順に東、西)-

 

 

 

 

 

 -瓦御門-

 

 

 -南堀(順に東向き、西向き)-

 

 -南辺縁石垣-

 

 

 

 

 -看板-

 

 -御本城橋・御門(東から)-

 

 南西隅には、その方角に因んで巽櫓が設けられています。

 -南堀・巽櫓-

 

 

 -東堀(順に南から、北から)-

 

 北東隅にも、同じく艮(うしとら)櫓があります。

 -堀北東隅-

 

 -堀北東隅・艮櫓-

 

 

 -艮櫓-

 

 北辺縁には北不明(あかずの)御門が開かれています。大手の裏なので、搦手口ですね。

 -北堀-

 

 -北不明御門-

 

 -北堀・北西隅-

 

 北西隅には方角に合わせた乾櫓がありません。その代わり、天守が設置されています。

 -天守台・北堀-

 

 -堀北西隅・天守台-

 

 西堀には山里口御門が置かれています。ここに架けられていた御廊下橋が復元されています。

 

 -西辺縁石垣(順に御廊下橋北、南)-

 

 -西堀・御廊下橋-

 

 

 

 -御廊下橋-

 

 

 -西堀(順に北向き、南向き)-

 

 -山里口御門一の門-

 

 -同桝形-

 

 

 -同二の門-

 

 -同看板-

 

 -西辺縁雁木-

 

 -西堀(南西隅)-

 

 南西隅には坤(ひつじさる)櫓があります。

 

 -堀南西隅・坤櫓-

 

 続いて、本丸の内部に入りましょう。先程の御本城橋から入ります。すると石垣の内法に階段があるのが見えます。使用禁止となっていないので、自由に登れます。

 -南辺縁石垣内法階段-

 

 -南辺縁土塁内法-

 

 -南堀・御本城橋俯瞰-

 

 -御門東櫓台内部-

 

 -瓦御門俯瞰-

 

 -張出部俯瞰-

 

 -南辺縁石垣馬踏・南堀-

 

 -南堀折れ部-

 

 -南辺縁折れ部馬踏-

 

 地表に戻りまして。瓦御門をくぐった先の空間は張出部となっていて、門と平行に番所が設置されています。侵入者の見張りは完璧ですね。

 

 -南辺縁張出部内法(順に正面、側面)-

 

 -番所-

 

 瓦御門を東に向けてくぐり、番所に当たって北向きに進路を変えると、御殿が正面にあります。進路の先には玄関が、その西に大広間があります。現在の庁舎の玄関……、の手前の広場です。

 -玄関-

 

 -大広間-

 

 東に進むと、御殿の南東隅の御台所に当たります。

 -御台所-

 

 -南東隅-

 

 御台所の北には御風呂屋、続いて奥寝所があります。風呂入って寝る、完璧な動線ですね。

 -御風呂屋-

 

 -奥寝所-

 

 -東辺縁土塁北部内法-

 

 奥寝所が北東隅で、西隣が大奥御座の間、御座の間と続きます。御座の間から北にぴょこんと御小座敷が飛び出ています。

 -大奥御座の間-

 

 -御座の間-

 

 -御小座敷-

 

 北辺縁石垣も上れます。落ちないようにご注意下さい。

 -北辺縁土塁馬踏・内法-

 

 

 -北堀俯瞰(順に東向き、西向き)-

 

 -北西隅-

 

 北西隅には、上の写真で見えているように、天守台が遺されています。天守は大小の二つがありました。

 

 -看板-

 

 -天守台東辺縁南部・池-

 

 -天守台南辺縁東部・池-

 

 階段を上ると、右手に地名の由来となった福の井があります。

 

 

 -福の井-

 

 福の井の北側にある小天守台は崩落しています。看板で「自然の力が感じられる」って感心する前に、復旧してよ。

 -小天守南辺縁-

 

 

 -同西辺縁-

 

 -同西辺縁北部-

 

 -同北西隅-

 

 大天守台は南北に長く、北半分が使われていたようです。

 -大天守北西隅-

 

 -同東辺縁張出-

 

 -同東辺縁南部-

 

 -同入口-

 

 -同北部-

 

 -同中南部-

 

 ここから二・三の丸が見えます。

 -二・三の丸西部俯瞰-

 

 地表に下りましょう。御殿は、御座の間が北西隅で南西隅の大広間まで繋がっています。その道中、北側からは御舞台が飛び出しています。

 -御舞台-

 

 -坤櫓-

 

 遅くなってしまいましたが、これにて本日は終了。今回も『日本城郭体系』シリーズ(新人物往来社)を参考にさせて頂きました。ありがとうございました。

 

 次回は来月29日(土祝)、播磨国の鶏籠山城・龍野城の二城をご案内する予定です。それでは皆様、閲覧ありがとうございました。お休みなさいませ。

 では、時代を改めて福井城を見ていきましょう。

 

 柴田氏滅亡後は、惟住五郎左衛門尉長秀や羽柴(堀)左衛門督秀政、羽柴(青木)紀伊守一矩が入り、関ヶ原合戦後には結城参議秀康が入部しました。清水丹後守好正が普請総奉行を務め、城は親父殿の時代の北ノ庄城を継承する形で再々築および拡張整備されました。六年で落成しましたが、外郭をちょこちょこと改修したそうです。

 -参考:惟住五郎左の佐和山城-

 

 -参考:羽柴久太郎の長浜城-

 

 その後、着地の松平左近衛中将忠直は乱行を理由に隠居させられ、その弟である同名伊予守忠昌が継ぎました。この時代に、「北」の字が「敗北」に通じるとし、地名を天守近くの井戸「福の井」に因んで「福居」と改めました。元禄期に、これが「福井」となったそうです。

 

 構造を見ると、南に大手があり、本丸を囲んで山里丸・二の丸・三の丸・二重の外郭が設けられた環郭式です。周囲に侍屋敷があり、その外に町屋敷を置きました。

 

 では、実際の城を見ていきましょう。先ずは縄張り図から。現地案内板です。

 

 -縄張り図-

 

  先述の城址公園には、福井城期の石垣も残っていて展示されています。この辺りが三の丸南辺縁西部で、日向門が開いています。

 

 -三の丸南辺縁西部-

 

 

 

 -日向門(順に枡形、櫓台、礎石)-

 

 

 -三の丸辺縁石垣(日向門)-

 

 反時計回りに動きましょう。二の丸東部は百間堀に沿っています。

 -二の丸東部-

 

 -百間堀-

 

 

 -同石垣-

 

 -同弁慶櫓-

 

 北に目を向けましょう。輪郭式城郭は大体そうですが、三の丸も二の丸も薄くなっています。三の丸北部の外堀側に開いてるのが舎人門です。越前赤瓦という赤い瓦が葺かれています。

 

 

 

 -舎人門-

 

 

 -同礎石-

 

 -北外郭・北堀-

 

 

 

 

 

 -北外堀-

 

 

 -三の丸北辺縁土塁石垣-

 

 

 -三の丸北土塁内法(順に東、西)-

 

 -   

 -舎人門の裏-

 

 この内側には、蟻野氏らの屋敷があります。特にこの舎人門の裏は、蟻野邸の庭園だそうです。

 -蟻野邸の池-

 

 

 -武家屋敷(一枚目は蟻野氏)-

 

 また、この一角では当時の地層や上水道の遺構が見れます。

 

 -地層-

 

 

 -芝原上水-

 

 ここから南に下ると、三の丸内部の堀があります。そこには清水門が開いています。

 -三の丸北部東側-

 

 -内部堀-

 

 

 -内部堀(清水門、順に東向き、西向き)-

 

 -三の丸北部西側-

 

 親父殿が再建したと伝わる神明神社はここにあります。

 

 -神明神社-

 

 更に北に行くと二の丸北部です。特に何かがあるわけではありません。

 -二の丸北部-

 

 西に回りましょう。三の丸西部はめっちゃ薄いです。御座所があったそうですが、それだけでいっぱいです。

 -地図-

 

 

 -西外堀(順に北向き、南向き)-

 

 

 

 -御座所-

 

 -三の丸東辺縁-

 

 中堀は一部、水を抜いて保存されています。かなりの幅を有しています。

 -二の丸西辺縁石垣・西中堀南部-

 

 

 

 -西中堀南部-

 

 

 -同中部-

 

 -同北部-

 

 きりが良いので一旦ここまで。次頁より本丸に入ります。閲覧ありがとうございました。

 皆様こんばんは。今月も宜しくお願い致します。今週は前回の予告通り、有名な平城をご案内します。越前国は北ノ庄城、後の福井城です。

 -参考:近江国北ノ庄城-

 

 -参考:摂津国福井城-

 

 では、先ずは概要から。九頭竜水系によって造られた福井平野の南東部、足羽川の流域に建てられました。

 

 黒丸城主であった朝倉下野守貞景の次男が北ノ庄城を築き、”北庄遠江守頼景”を名乗りました。時代は下り、別の朝倉弾正左衛門尉貞景の嫡子である同名弾正左衛門尉孝景が当主の頃には北ノ庄城も重要拠点となっていました。そして天正元年に織田氏によって朝倉氏が滅亡すると、北ノ庄朝倉氏も主家と運命を共にしました。

 -参考:織田氏の岐阜城-

 

 天正三年には”親父殿”こと柴田修理亮勝家が再築しました。工事は天正三年から六年までかかりました。足羽川と吉野川との合流点に本丸を置き、そこには安土城を超える九重の天守を設けました。そこから北へ二の丸、三の丸が続く梯郭式の構造だったようです。

 -参考:安土城天主-

 

 では、実際の城を見ていきましょう。現在は本丸辺りが公園に、天守辺りが神社になっています。

 -公園地図-

 

 -本丸-

 

 

 -看板-

 

 -城址碑-

 

 本丸の南には九十九橋が架けられていました。そこに面して掘られた南堀の石垣が展示されています。

 

 -九十九橋-

 

 

 

 -南堀石垣-

 

 天守の石垣は撤去されていますが、僅かに残る根石が神社で展示されています。

 

 -柴田神社-

 

 

 -石垣根石-

 

 南部はこの神社で、その北限は福井城三の丸まで広がっていたようです。

 -北部-

 

 城址公園に戻りまして。同僚に”親父殿”と慕われただけあり、やはり人望が厚いのか、本人の銅像や辞世の句碑が建てられています。

 -銅像-

 

 

 -辞世の句-

 

 親父殿について他に有名なのは、美人の嫁はんと連れ子たちとですね。主家の女にして絶世の美女である小谷の方、長女で羽柴藤吉郎秀吉の側室となった茶々、次女で京極若狭守高次の正室となった初、三女で佐治與九郎一成・羽柴左近衛少将秀勝・羽柴(徳川)中納言秀忠の三人に嫁いだ江の四名です。

 -三姉妹神社-

 

 

 -三姉妹像-

 

 -参考:羽柴藤吉郎の伏見城-

 

 -参考:茶々の産所であった淀城-

 

 -参考:羽柴(京極)参議の大津城-

 

 -参考:羽柴左少将の亀山城-

 

 -羽柴黄門が後に城主となる江戸城-


 北ノ庄城時代についてはここまで。閲覧ありがとうございました。

 続きです。

 

 砥石城ので曲輪から先に進むと、谷を越えて隣の峰へと渡れます。道中に案内板がありますが、これから行く先についてはなかなか触れてくれません。

 

 -通路(笠松明現宮方向へ)-

 

 

 -通路(キャンプ場方向へ)-

 

 

 

 -通路(右折して登坂)-

 

 -通路(登坂先、右折)-

 

 

 -通路(鉄塔の奥へ)-

 

 -通路-

 

 さて、案内板によりネタバレされていましたが、ここからは砥石城の出城です。土壇の中心郭があり、幅広い腰曲輪や細長い帯曲輪などがあります。但し、よく現地ではよく分かりません。

 -縄張り図-

 

 主郭は、今は何もありません。ただ東から南にかけて土塁で囲繞されているのみです。

 

 

 -主郭-

 

 -土塁東辺縁-

 

 

 -土塁南東隅(順に内部から、馬踏)-

 

 -土塁南西隅-

 

 主郭の北側には、行けませんが北郭があります。これが「幅広い腰曲輪」なんですかね。

 -北郭俯瞰-

 

 主郭の南側の切岸は大きく、侵攻が難しそうです。更に南には堀切が設けられています。

 

 -南切岸(順に上から、下から)-

 

 

 

 -南堀切(順に土橋、東竪堀、西竪堀)-

 

 下山は東谷から行けます。鉄塔が目印です。

 

 -登城路(上)-

 

 -登城路(下)-

 

 本城も出城も連郭式で、防御に関しては有機的な関連性がありません。後者は西への備えに過ぎず、前者は防衛拠点が本丸のみの、一国人の限界を克服できていない城です。

 

 続いては丸山城です。詳細は不明で、室町政権前期では山名氏配下の天野左京亮が、戦国期には宇喜多家中の虫明(むしあげ)氏が拠りました。

 -参考:摂津国丸山城-

 

 丸山という、その名の通り丸い山の山頂に築かれた平山城です。地元の方々の尽力により、整備されているそうです。

 

 -丸山城-

 

 -看板-

 

 上段には何らかの祠があり、嘗ては山腹に大師堂があったようです。

 

 -斜面-

 

 -下段削平地ヵ-

 

 

 -丸山大師堂-

 

 -本丸-

 

 最後は明禅寺城です。旭川下流左岸平野の南、東西に延びた操山の尾根上に築かれた、連郭式の小型山城です。足元に肥沃な平野が広がり、旭川も流れている戦術的な要地です。

 -参考:旭川-

 

 宇喜多泉州様が岡山平野や備中国への備えとして築城し、家臣を入れました。備中の有力者である三村氏が一時的に占領しましたが奪還し、再び宇喜多氏の城となりました。宇喜多氏が岡山平野の支配権を確立すると用済みになり、廃城となりました。

 -参考:岡山平野-

 

 この城は臨戦的城砦に過ぎず、上部建築は仮設物です。また、大手も主要部の構成も水の手もありません。

 

 では、実際の城を見ていきましょう。操山公園の内部にあり、主郭に看板が設置されています。

 -看板-

 

 看板にあるように本・二の丸の二つの大きな曲輪が中心です。史料には他にも尾根上に曲輪群が配置されているように描かれていますが、よく分かりません。

 

 

 

 -南登城路-

 

 -本丸南切岸-

 

 

 -本丸(順に内部、北虎口)-

 

 -本丸北斜面-

 

 -二の丸-

 

 

 -北側登城路(上から)-

 

 これにて本日は終了。今回も『日本城郭体系』シリーズ(新人物往来社)を参考にさせて頂きました。ありがとうございました。

 

 次回は来月25日(土)、年度末に相応しい有名な平城をご案内する予定です。それでは皆様、閲覧ありがとうございました。お休みなさいませ。

 続いては砥石(といし)城です。

 

 吉井川下流右岸、千町平野に向かって伸びる砥石山の尾根上に築かれました。半島状に伸びた尾根の頂部に稜線に沿う形で載頭砲弾形の本丸を造り、そこから連郭式に曲輪を並べています。

 

 築城時期は不明ですが、宇喜多和泉守能家が居城としていました。ですが同僚の島村貫阿弥(豊後守とも)に攻められ落城、宇喜多泉州の兄でありながら島村貫阿弥に与した宇喜多大和守が城主となりました。結局、宇喜多和州は捲土重来を期した弟の孫である同名三郎右衛門尉直家に攻められ討死し、その弟である同名六兵衛尉春家が城主となり、いつしか廃城となりました。因みに、この宇喜多六兵衛尉

は存在が疑問視されており、同名七兵衛尉忠家と同一人物とも言われています。

 -参考:木幡山伏見城の宇喜多七兵衛尉屋敷-

 

 では、実際の城を見ていきましょう。先ずは縄張り図から。

 -縄張り図-

 

 登城口は岡山県道231号沿いに開かれています。この登城路である山道が大手らしいです。

 -側面-

 

 

 -登城口-

 

 -登城路-

 

 ここから曲輪群が現れますが、縄張り図との比定は出来ませんでした。史料には「本丸先端側に三段曲輪」とあるのですが、四段あるんですよね。多分、内二つで一段なんでしょう。便宜上、下からabcdと仮称しておきます。

 

先ず辿り着くのは曲輪aです。その下にも細かい曲輪群が点在しています。ここから順に曲輪が展開していきます。

 -下曲輪群-

 

 

 -曲輪a-

 

 

 -曲輪b-

 

 -同俯瞰-

 

 -曲輪c-

 

 この上の道に、本丸までの距離を示した看板が設置されています。城主やから仕方ないのですが、宇喜多泉州様の絵が描かれています。これは疑ってかかってしまいますね。

 -看板-

 

 

 -曲輪d(順に内部、散乱石)-

 

 この上が本丸です。上ってきた北側以外は野面積みの石垣が設けられています。

 

 

 -本丸(順に北端、北部、南部)-

 

 

 

 -石垣-

 

 

 

 -看板-

 

 ここからの展望は見事です。仇敵の拠る高取山城もよく睨めます。

 

 -展望(順に北、北西)-

 

 -高取山城遠景-

 

 本丸から南南西方向の尾根を進むと自然地形の鞍部となり、先端に石が積まれた出曲輪に辿り着きます。

 -鞍部-

 

 -出曲輪-


 少し短いですが、きりが良いので一旦ここまで。閲覧ありがとうございました。