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良寛の影響というより懐素に影響を受けたようだ。それとも

大きな変化があったのでしょうか。この扇面は信州に寄った

ときのものと思っています。


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懐素・草書千字文.「存以甘棠」 - YouTube



「鵬斎は越後帰りで字がくねり」


と揶揄されたほどであったようですが、どこを通って旅をした

のでしょう。
文化6(1809)「寛政異学の禁」によって学塾を閉鎖せざるを
得なくなって、文化6年から日光~信州~越後~佐渡と旅をし
ています。3年間の旅費の多くは越後商人によるという。
3 月 信州善光寺から越後に入り,高田・柏崎・出雲崎・与板
・燕・三条・新潟などに遊ぶ
文化7(1810) 4.月20 日 佐渡の小木へ渡り,3か月余滞在
する 。58歳の時、佐和田町五十里の通称「小沢」、酒造業を
営む矢島主計宅に滞在した。
文化8年(1811年)5月には、中条町の岡田家、吉田町(新潟県)
の酒井家に滞在している。見附にも滞在している。
その後、江戸へはどのようにして帰ったのでしょう。



山田松斎(やまだ しょうさい)1770-1841江戸時代後期の儒者。
名は顕孝。字(あざな)は文静,太古。通称は荘(庄)左衛門。
明和7年生まれ。信濃(しなの)東江部村(長野県中野市)の豪農。
亀田鵬斎(ほうさい)に学び,(いつ頃学んだのか?)

漢詩の結社「晩晴吟社」を興す。
天明の飢饉(ききん)では施米を行い農民を救済した。鵬斎も本

などを処分して援助したようです。

 

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亀田鵬斎詩碑/新潟県公式観光情報サイト にいがた観光ナビ


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