子供を信じるということ | naganomathblog

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教育熱心な親御さんの中には、自らお子さんの勉強を見てあげる方がいます。しかし残念ながらそのような場合、かなりの確率でお子さんの成績は伸び悩びます。それは(失礼ながら)親御さんの内容に対する理解が不十分であることばかりが原因ではありません。一番の問題は、子供が親に質問をした訳ではないのに、親が日常的に子供に教えているその環境です。

人から与えられたものと自分で探して掴みとったものとでは、それを学習しようとするときの吸収の度合いがまるで違います。言うまでもなく後者の方が遥かに身になります。親鳥が運んでくれるエサを待つ雛のような態度の勉強では、本当の力はつきません。


親は子供が自らの手で何かをつかみとろうとする機会を奪ってはいけません。自分の翼で飛び回り、たとえ親鳥が運んでくれるものより不恰好だったとしても、自分の力で何かを得たという経験こそが子供の自信となり、やがてくる大いなる飛躍に繋がります。

親御さんに勉強を教えてもらっている生徒さんが入塾される時、私が親御さんに最初にお願いするのは「私が責任を持って指導しますので、お子さんの勉強から手を引いてください」ということです。
これは親御さんにとって勇気のいることだと思います。手を引いた途端に一時的にお子さんの成績がさらに悪化するケースもあります。しかし子供の成長は、親は手を差し伸べてくれないと子供が自覚をしたところから始まります。「これではまずいな」と本人が思えば、成績は必ず上がっていきます。これは私の指導経験の中でも明らかです。

職業柄、親御さんに「どうしたら子供が勉強するようになりますか?」と聞かれます。答えは、逆説的ですが「勉強しなさい」と言わないことです。実際、私自身は言われたことがないですし、東大の同級生もそういう人が大半でした。親がすべきは子供に毎日のように「勉強しなさい」と小言を言うことではなく、子供に志が立つのを待ち、そして子供信じることです。その信頼感は必ず子供に伝わります。

私にもまだ幼いですが2人の娘がいます。他の子はできていることを我が子ができていないと、心配になる気持ちはよく分かります。例えば、他の子はできている縄跳びが出来ていないことが分かれば、なんとか平均には届くように練習させてあげたくなります。

しかし、子供を「平均」に育て上げることに果たしてどれだけの意味があるのでしょうか?すべてにおいて平均的な人間は面白みに欠けると思うのは私だけでしょうか?たとえ、縄跳びが苦手でも、水泳が苦手でも、それを欠点として捉えるのではなく、他に長所を探してそれを褒めたり伸ばしてあげたりするほうがずっと大切なことなのではないかと思います。そして、それが出来るために必要なことは、わが子を信じることです。

親が自分の子供を信じるというのは、自分自身を信じることでもあります。

親が子供に期待をかけるのは当然のことです。良い人生を歩んで欲しい、幸せであって欲しい、笑顔でいて欲しい、そう願うのは親として、ごくごく自然なことです。それが親の愛というものでしょう。

しかしそれが昂じて「自分より幸せになって欲しい」「自分より良い人生を送って欲しい」と願うことは決して子供のためにならないと私は思います。そう思うことは親が自分の人生を肯定していないことになります。「自分のようになってほしくない」という思いは、子どもに対して必要以上に発破をかけてしまったり、手を差し伸べすぎてしまったりして、子どもが自分の足で立つ力を奪いかねません。しかも子供にとって親のそういう期待はプレッシャーやストレスの元になります。


わが子を信じる…言うは易し、行うは難しです。
でも、親が自分のことを信じ、自分の子供なのだから大丈夫と鷹揚に構えることで、子どもは「信頼されている」という自信と安心感を得ます。そしてこれこそ、まだ幼い翼で巣を飛び立とうとする時に、子供がもっとも必要とするものです。

百獣の王がわが子を千尋の谷に突き落とすのは、自分の子であれば、這い上がってきてくれるに違いないと信じているからだと私は思っています。