茨木のり子さんの生き方──『詩の心を読む』が生まれるまで | 大阪の弁護士•長野智子(智聖法律事務所)

茨木のり子さんの生き方──『詩の心を読む』が生まれるまで

国語の教科書でおなじみの『詩の心を読む』。そこに込められた言葉の強さや透明感は、どのようにして生まれたのでしょうか。その背景には、茨木のり子さん自身の、静かで、しかし揺るぎのない人生の歩みがあります。



■ 医者の家に生まれ、「薬剤師になるべき」と言われた少女



茨木のり子さんのお父様は開業医。娘には安定した職を、と考え、「あなたは薬剤師になりなさい」と道筋を決めました。


しかし、のり子さんが本当に惹かれていたのは、数学でも化学でもなく──詩。


それでも反発せず、「最後のご奉公、親孝行」と心に決めて薬科大学へ進学し、見事資格も取得します。けれども、その後は一切薬剤の仕事には携わりませんでした。

どうしても詩を書きたい。 その思いだけが、静かに心の底で燃えていたのです。



■ 親から見ると「不適切に見える」文芸仲間たち



のり子さんは文芸仲間と集まり、詩作に打ち込みます。しかし、医家の常識から見ると、文学青年たちはどこか不安定で頼りなく映ったのでしょう。

「娘を落ち着かせたい」──そんな親心から、ある日、お見合い話が持ち上がります。



■ 見合いの席での“一目惚れ”



見合い相手だったのは、若き医師・安信さん。

その席で、驚くことに お互いが一目惚れ をしたと言います。


ふたりは25年間、とても仲睦まじく暮らしました。のり子さんの詩の背後に、安信さんという静かな支えがあったことは、よく知られています。



■ 「虎のように」泣いた日



しかし、幸せな時間は唐突に終わります。

安信さんは、がんであっけなく世を去ってしまうのです。


のり子さんはそのときのことを、

「虎のように泣いた」

と表現しています。言語化できないほどの悲しみ。それは、詩人であっても詩に変換するまで長い時間を要する痛みでした。



■ 廃人になるのではないか──友人が差し伸べた一本の糸



深い喪失感で自暴自棄になっていたのり子さんを見かね、親交のあった小学館の編集者が声をかけます。


「のり子さん、詩作について本を書いてみませんか」


仕事がなければ、精神的に立っていられないだろう──そんな気遣いから差し出された依頼でした。



■ 生きる支えとして書かれた『詩の心を読む』



のり子さんは、この提案を静かに受け入れます。

そして生まれたのが、後に国語の教科書にも掲載される名著 『詩の心を読む』 でした。


喪失から立ち上がり、再び言葉の世界に戻っていく。

その過程が、この一冊には静かに息づいています。




茨木のり子さんは、生きる道を指示されても、最後には自分の足で立ち、自分の言葉を選び取った人でした。

そして、深い喪失の暗闇の中から、なお光を見つめ続けた人でした。


彼女の詩がいまも私たちの胸に届くのは──

その言葉が、生涯のなかで何度も打ち砕かれ、それでもなお紡ぎ直された「本物」だからではないでしょうか。