遠い太鼓 (講談社文庫) [ 村上 春樹 ]
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村上春樹さんの紀行エッセイ『辺境・近境』の一編に、ノモンハン事件を扱った章があります。
春樹さんは高校時代、教科書の片隅にあった「ノモンハン事件」という短い記述に不思議な引っかかりを覚えたのだそうです。ほんの数行の説明にすぎないのに、心のどこかに小石のように残り続けた、と。
時が流れ、アメリカ・タフツ大学の図書館で、彼は偶然「ノモンハン」という英語の研究書に出会います。著者はアメリカ人の歴史研究者で、この人物もまた、何かに取り憑かれたようにノモンハン事件へ惹かれ、生涯の研究テーマにしたというのです。
人生には、こうした「理由は説明しづらいのに、どうしても目が離せないもの」があります。
呼ばれるように、そちらへ歩いてしまう。
春樹さんにとってノモンハン事件は、まさにそのひとつだったのでしょう。
春樹さんの分析では、ノモンハンとは──
日本軍の兵站軽視、準備不足、そして無謀な作戦立案を象徴する出来事です。それをきちんと総括しないまま現代を語ることには、どこか「臭いものに蓋をするような気持ち悪さ」が残る、とも述べています。
歴史の失敗を直視するというのは、どんな国にとっても難しい作業です。しかし向き合わなければ、土台に歪みが残ったままになる。
そんな思いを胸に、村上さんはカメラマンの松村さんとともに、実際にノモンハンの地を訪れます。
広大な草原、風の音、かつて戦車が走った跡。
「ここで何が起きたのか」を自分の足で確かめようとする姿勢が、春樹さんらしい静かな誠実さで胸に残ります。
人生には、たまにこういう出来事がある。
説明のつかない磁力を帯びて、こちらを引き寄せるもの。
『辺境・近境』のノモンハンの章は、そんな“呼ぶ力”の存在を改めて思い起こさせてくれる一篇です。