配偶者との死別後、人生の明暗を分けるもの──「家事能力」という視点
配偶者との死別は、誰にとっても深い喪失体験です。
ただ、その後の生活がどのように展開していくかを見渡すと、男女で傾向に差があるのではないか──そんな仮説について、最近よく考えます。
特に日本社会では、家事の多くが長らく女性に偏ってきました。
そのため、妻に先立たれた男性が、生活の基盤を保てず急速に心身のバランスを崩すケースをしばしば耳にします。
食事の準備がままならない。
家のどこに何があるのかすら分からない。
身のまわりの管理が混乱し、それが喪失の悲しみに重なることで、心が折れてしまう──。
たとえば智の巨人・江藤淳さんは、妻を亡くされてほどなくして自死を選ばれました。作家の城山三郎さんも、最愛の妻の死後、体調を大きく崩され、病死されました。
もちろん背景はそれぞれ深く複雑ですが、“生活の基盤が揺らぐショック”が悲嘆に拍車をかける構造は、少なからず作用していたのではないかと感じます。
一方で、女性の場合はどうでしょうか。
悲しみは同質・同量であるにもかかわらず、日常の家事能力には大きな変化がないため、生活が完全に崩れ落ちることは少ないようです。
遺族年金を受けながら、時間をかけて悲嘆を癒し、やがて友人と旅行に出かけたり趣味を再開したり──そんな前向きな独居生活を続けておられる高齢女性をよく見ます。
しかし、近年は事情も変わってきました。
料理好きの男性も増え、掃除・洗濯を得意とする男性も珍しくありません。
逆に、家計や生活実務の多くを夫に任せてきた女性もおられます。
そうであれば、「夫に先立たれた後に生活の質が急落し、どこから立て直せばよいかわからない」というケースが女性側に生じる可能性も十分にあります。
結局のところ、男女差ではなく、
どちらか一方に家事を全面的に依存する暮らし方そのものが、喪失後のリスクを大きくする。
という構造があるのだと思います。
人生の後半をどう生きるか。
配偶者が健在のうちから、自立した生活スキルを双方が持つことは、大げさではなく「自分の人生を守るための備え」です。
料理を覚える。
掃除や洗濯の手順を共有しておく。
家計の管理を“どちらかしか知らない状態”にしない。
些細なことのようでいて、死別という避けがたい現実の前では、大きな力を発揮します。
元気なうちに、配偶者に依存しない生活力を培っておくこと。
それは、自分に与えられた生を全うするための、静かで力強い準備ではないでしょうか。
