人生振り返って・2 | 63歳からの登山

63歳からの登山

87才から山頂に行けなくなった。
88才から複数登山にする。
登れなくなるまで登ってみる。
89才どう生きるか老いを綴っていく! 

    生と死の狭間

八月十五日戦争記念日において、戦争の恐ろしさを皆さんに知って戴く

私の見た事、聞いたことを載せます。 


 昭和二十年八月十一日、私十才、樺太恵須取
浜市街は艦砲射撃、爆撃、焼夷弾、市街は火の海、私達親子は山市街に住んでいました。 
 浜市街の空は真っ赤に染まり燃えている。
八月十三日山市街もソ連の戦闘機の機銃掃射、爆弾投下ここも危険。
 ソ連の飛行機が飛んでくる、私は十才怖いもの知らず防空壕に避難するが外では爆弾破裂、
畑の作物吹っ飛んでいる、ダ、ダッと機銃の音、防空壕の蓋を開け覗く!
犬が走る戦闘機戦闘機それをめがけ、ダ、ダー カボチャに穴が空いていた。

 爆弾炸裂で建物が吹っ飛び噴煙、子供心に恐ろしさはないが、呆然と見ていた、
母に怒られ防空壕に入って丸くなる。 
 山に逃げようと母、近所のおじさん達は「早く逃げろ」と怒鳴りながら行く。
母は夕方まで姉の帰りを待つ、姉は郵便局(電話交換課)に勤務、
局も機銃掃射、爆撃、弾丸は壁を突き抜け姉は電話交換台にしがみついていたそうです。

 

 電話交換手は命令があるまで動けない、憲兵隊避難命令、命からがら帰る。 

当時の姉の帰る姿今でも浮かび上がる。 

髪はぼうぼう、きものはら破れて、もんぺは泥だらけ交通機関ストップ家について

ホッとしたことだろう。夜遅く起こされ山道を歩く(交通機関は止まりどこへ行くのも徒歩)

火の玉が飛んでいく、あとからわかった事だが艦砲射撃の砲弾、

良く私達の所に落ちなかったものだ。

 

 誰もいない農家に泊まる、住民も避難して空屋私は国民学校四年生危険の

度合いがわからない、私達と同じ避難する人が入って来る、寝ていられない!

女、子供何されるかわからない、ソ連上陸ここも危ない着の身そのままリックに非常食

(干しご飯、煎り大豆)を背負い朝くらいうち又山道を歩く、姉たちは先を行く、

私は足に血豆痛いので母に愚図り困らせる。
 

 橋の上にしゃがり込む?

橋の下に赤ちゃんがいる、母に知らせる、母は手で私の顔をふさぎ「行こう」っと無言!

私は泣きながら着いていく(今思えば赤ちゃんは死んで捨てられていたのだ)足が痛くて

道端で休んでいると近所のおばさんが休もうと腰を下ろした途端、戦闘機ダダ・・っと

機銃掃射、逃げる暇もない!おばさんの顔に当たる、おばさんのけぞる!

顔は真っ赤だ!思いながら走る。 

 

 先に行っている姉たちに合流、皆無事ホッとした母の顔、母の機敏な行動、
今でも頭が下がる。人影があると撃たれる夜歩くことになる。
 親にはぐれて泣き叫ぶ子供、子供を呼ぶ親、ゾロゾロと暗い山道歩く
母は帯で私達をつなぎ離れない様に歩く。
海岸に出るが祖父の知人の家で休むがすぐトラックが隣町に行くのですぐ
トラックに乗る、乗ってから着くまで何かにつかまり寝ていた!
 振り落とされたら置いてけぼりだったようです。
私達は山道を来たから良かったが海岸沿いに来た人方は、
艦砲射撃で人は吹っ飛び地獄そのものだったようです。

 

 ソ連の進駐を阻もう民間の自衛団を募っていた、

08年8月25日のテレビ『霧の日』を見てわかった。 

兄十三才が樺太真岡で義勇兵の徴兵されようとしていた15~60才までの徴兵だった。 

兄は体格が良い「15才だから残れの通達、母は「13才13才」と

叫ぶ懇願、その姿は今でもありあり浮かぶ。

 一般人は(義勇兵)は竹槍、包丁をくくりつけ武器にして

ソ連の上陸に備えたそうです。

真岡を離れその後真岡は攻撃されました。

08年8月25日のテレビ『霧の火、樺太真岡に散った九人の乙女達、

終戦五日後も最北の地は戦場だった!』の惨事。

 九人乙女は青酸カリ飲んで自決、看護婦の姉も自決に追い込まれたと思う。

テレビでわかったことは、土壇場で、上に立つ者の声で人生が変わる、

同じ電話交換手も恵須取の憲兵は避難命令、真岡は自決、上に立つ人柄だと思う。

 私達親子は終戦など知らないでいました。樺太の首都豊原に着く、

戦闘機が一機飛んでくる、日本の飛行機かと「ばんざい」?ソ連の偵察機、

日本の飛行機飛ぶわけはない、皆んな暗い顔。

 山に疎開が、北海道に行くことになる、ただ逃げるだけ、港、大泊に着く岸壁に

人が黒山だ、船に乗る順番待ちで岸壁に泊まっている、私達も岸壁に泊まる。

 夜ウンチしたくなるが倉庫と倉庫の間ウンチだらけ座る所なしこの我慢一生忘れない。

翌日乗船開始、残される人、乗る人と分けられる、私達前から、あと何人と区切り初めた、

母は「区切らないで」絶叫!母の願い聞いてくれたのか、逓信関係者は優先、乗船できる

(電話回線、電線海底埋没船・小笠原丸が急遽引き上げ船に変更)甲板は人人で

一杯これが最後の北海道行きだった。
  

 小笠原丸大泊を発ったのは8月21日午後11時45分、1.514人デッキ人で鈴なり

8月21日稚内港、母は小樽港に行きたかったが姉が船酔具合が悪くなり

22日午前11時頃稚内に着く、887人が下船、この中に私達が入っていた。
 小笠原丸輪稚内港を出るがなんというう運命!この船、北海道留萌沖で

午前4時20分 乗船者702人がL12ソ連潜水艦に魚雷攻撃で撃沈!

841人が死亡生存者は82人、小笠原丸は大部分は女.子供だった。

この中に姉の友人、電話交換手、逓信病院の看護婦、などの女性が大勢混じっていた。

 

 生死を分けた髪の毛ほどの運命の差だった、留萌の浜に腕、足がない死体が海辺に

流れ着く。魚雷爆裂で身体がバラバラ船から放り出された人が流れ着いたようです。 

 その中に腕がスッポり切り離された死体もあったそうです、

これはどういうことか地元古老の話です。 

私達親子は生と死の狭間をくぐってきました、

まだまだ戦争の恐ろしさたくさんあります。

私達は帰って現在があります、これも母の強い生の意気込みでしょう。  

その母も他界しております、母を誇りにしています。

(一部北海道新聞を参考にしました)


     姉(長女)当時20才、

   同僚の若い看護婦さんの手記です。
8月25日の誓・死線を越えて来た者として、東京・山本美恵子昭和20年8月26日

(1945年)旧樺太太平洋炭鉱病院に勤務してた時のことです。

 私18才でしたソ連参戦により16日は艦砲射撃と空爆で炭鉱街は灼熱地獄と化し

我々われ看護婦は23人やむ得ず避難しました。

長い道のりは逃げ隠れの繰り返し疲労も限界に達し、幾度も脱落しそうになりました。

 避難中に「我々は包囲された」とのデマが乱れ飛び、最悪の状況下で

死を選ぶとの結論に合意し、近くの牧場の奥深く死に場所うを求めました。 

大木のある場所を見つけ、婦長さんの采配で劇薬の注射をしたが、

大勢のため致死量には至らず、切断刀で手首切られ、間もなく意識失いました。

 それからどれくらい時間が経過したのか八月暑い太陽を浴び、あまりの暑さに喉の

渇きを覚え、意識が戻りました。

くしくも十七人が生存しており、婦長以下6名はすでに絶命!死臭と

血なまぐさいなかで意識回復しあるものは「水を水を」と目走っていました。 

 私は意識朦朧でしたが、同僚二人で切られた手首をかばい、地で汚れた

水筒を引きずり、四つんばいになって、上空の飛行機を避けながら、

ただひたすらに水を求めて草はら徘徊し馬か牛の足跡に溜まった

水を発見し、同僚と二人で水をすすり合ったのです。

 戦時中に国民を餓死状態に、幾多の人々を犠牲にしたのにもかかわらず、

喉元すぎれば暑さ忘れるとのたとえ通り、又戦争の道を逆戻りのか。

 次の世代に私達の歩んだ道を二度と踏ませる事の無い様にと、

死線を越えた者としてあえて寄投稿しました。 

(山本美恵子さんお手記です)

 

 姉(長女)が山本美恵子さんの上司です。

姉はこの事に関したは一切口にしませんが現在はこの世にいません。

姉のために一言書き添えます。 姉が健在のとき・・・

戦後、樺太太平洋病院の慰霊祭札幌で行った、現在はありません。

 慰霊祭に行くたびに私にこぼしていた当時の人に

「腕を切られた死にたくなかった」と言われしょげていました。 

姉のおよそのことは知っていましたから当時切羽詰まっていた

婦長命令仕方がないことです。

 若い人が自分の手首切れません、若い人の腕切ったあと自分の腕切って

いますが生きていましたから姉の心の傷跡、70年間、死んで、

もっていったことでしょう。 自分の子供にも言わなかったと思います。


 樺太太平洋炭鉱病院勤務の手記です。

私達四人が山道歩いていたときは姉は樺太太平洋炭鉱病院勤務でした。

私達頭の上の火の玉は樺太太平の市街の砲撃だったのです。 

 これは雑誌に載った記録ですが、少しさだかでないところがありますが

当時の記録です仕方がありません。

 昭和20年8月16日午前2時ソ連艦隊、塘路沖に姿を現し艦砲、射撃太平市街も

爆撃で野外に積まれた石炭が燃え灼熱地獄だったそうです。 

炭鉱病院では避難したあとも高橋婦長以下十一人の看護婦が

重症患者を神社下の防空壕に移し、看護していた。

 

 「逃げたほうが良い!ここまで看護してもらえたら、患者冥利に尽きる」

と患者方々が避難を勧める。17日全員が避難したことを知った高橋婦長は若い

看護婦たちを避難することを決意、患者に薬を渡し、別れを告げ防空壕を出て、

上恵須取武道沢に向かった、

獣道の難路である。
 喘ぎながらの逃避行、女性には困難で何人かの男性に追い越されその中のひとり

「なんで今頃女の癖してウロウロしているんだ。
そこまでソ連軍が追ってきている、女の足じゃとても逃げおせるもんではない」

と荒い言葉を投げつけ足早に茂みを掻き分け消えていった。

誰も彼も急転直下の惨劇に動転し気持ちが荒ぶれ、荒みきっているのだろう、

その矛盾は女に向かれていた。

 

 優しさを失った心無い男の捨てセリフが、悲劇を生み出すことになってしまった。
貞操観念を徹底的に叩き込まれて育った世代の女性達である。

ソ連軍に捕まって辱め受けるのなら、自らの手で命をと即座に全員の決意は固まった。

 東の空を仰いで拝み静かに君が代を斎唱したあと、大きな木の根元に車座になり、

石川主任看護婦が最後のときの場合に持ってきた青酸カリを一服ずつ手渡した。
 「私は非難時の判断誤ったお蔭で若いあなた達を死に

追いやり.ことにしまったお許しください」

高橋婦長は一人ずつ詫びた後、服毒し、手首の静脈を切った。 

 全員それに見習ったが中の一人が死にきれず這いずって近くの佐野造材飯場に

苦しみのたうちながら転がりこんだ。看護婦の集団自決を知った飯場の人たちが

窮境現場に駆けつけたが7名が絶命していた。

 七名の遺体は、飯場の人達の手で棺に納められ葬られた、土まんじゅうが七つ、

俗名を書き込んだ白木の墓標の前には草花が供られた。

 戦後ソ連は病院関係は優遇した様です。姉もそう言っていました、

姉はソ連語を覚え、帰還するときソ連の医師が残ってくれと懇願されたようです。

  山本恵美子さんの手記とこの記録で姉の生き様がわかりました。 

『人生振り返って3へ続く』

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