人生振り返って・3 | 63歳からの登山

63歳からの登山

87才から山頂に行けなくなった。
88才から複数登山にする。
登れなくなるまで登ってみる。
89才どう生きるか老いを綴っていく! 

  続き生と死の間続編
2018年8月15日に載せた生と死の狭間の続きがある。
私は10才忘れられない記憶がある。
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 戦後の北海道
命からがら北海道に来る稚内港で大豆混じりのおにぎりをいただく、おいしかった・・・

頭からDDTを被せられる、何日も風呂入っていない、シラミ頭シャツ服にびっしりだった、母はまず札幌に来た、狸小路の風呂屋に入り垢を落とす。

 母は洗濯をやりだす風呂の番頭さん昼間だから見てみないふり事情を把握していたと思う。  

 一番ビックリしたのは母は着物衿を開き、お金を埋め込んでいたのだ聖徳太子の拾円何枚もあった。今のお金にしたら拾円、2~3万だと思う、拾円値があった。

 生まれ故郷に戻る
戻ると父の友人運送組で働いていた人がいる母は顔が利く遠籍の家に厄介になる。

近くに部屋が空いているのでそこに間借りする。

 兄は当時は義務教育6年だった。街の鉄工所に住み込みで働くが丁稚奉公給料などない。

次女姉は父の友人の工場で働く三女は下駄製作所で働く食べるだけはなんとかなった。

 代 用 食 
馬が食べる、えん麦、ヒエ(鳥の餌)イナキビはごちそうだった正月はイナキビ餅だった。学校に持っていく弁当はえん麦にヒエ、とろろ昆布をのせた弁当、ボロボロでそれでも食べた。

 私の友達は雑穀商、遊びに行って豆よりをやって(豆の等級を上げる)手伝って白米のご飯、正月は白い雑煮をごちそうになった、我が家の口減らしだった。

 終戦後日本は復興、復興だが先ず食べなければならない故郷は農業の町食べ物は生きるだけのものはある。進駐軍が来る、子供達はアメリカ兵のジ-プに群がる英語で書いた缶詰をくれる、何が入っているかわからない、アメリカ兵はニコニコ笑いながらひとづつくれる、家に持っていく母は早速開ける、砂糖だ貴重品、農家から頂いた豆を煮てくれた甘く美味しい。

 あのときの味は一生忘れない!又進駐軍が来るかと待ちあぐれたがこなかった。

米は一般の人にはまったく手に入らなかった。

 学校から帰るとカボチャジャガイモ、手が黄色くなった、当時ニシンがとれたニシンを出刃包丁でつぶしでんぷん粉混ぜ団子にして作ってくれた母がいない時は私の仕事だった。

 芋カボチャ団子は常食だった、すいとん野菜を味噌で煮て麦粉ねって箸でちぎって鍋に入ればんのご飯だった。 

 次女姉は東京へ、三女は母と折り合い悪く家を出る。

国民学校5~6年生は母を助けお金になることはなんでもやった、朝は新聞配達学校を休んで農家の手伝い帰りには野菜くだものをもらってきた。

 冬の燃料は薪薪スト-ブに入るように切って薪割りして1年分保管した。

 

 魚釣りが好きだったやまべを釣って料理屋に売った、高く買ってくれた。

6年生修学旅行お金がない、夏の暑い時裸になり同期生の家が砂利屋をやっていた当時は砂利通しは人がやっていた大人の仕事だ、それをやってお金にした、何回か働いて同期生の家で白米のご飯を頂いた、そのおいしかったこと・・・

歳をとってから同期生に聞くが?だった、裕福な家は記憶が消されるのかも・・・

  実は初恋の人が行くので行きたかった6年生、ませていたかも・・・

同期生にニヨはませていたと言われる。 

もののない時、靴は大人の靴、服は姉のお下がりそれを着て学校へ行った。

  姉が樺太から帰る
母は長女姉が帰ってくると信じ引揚船が着くたび毎日駅に行く。

その時は姉の生死まったくわからない、子を思う母の姿、真っ赤な夕焼け乱れ髪のシルエット、駅の手すりに立つ母、岸壁の母の駅版です。 

姉が帰ってきました、それも孫を連れて初孫、嬉しかったに違いない。

養子に行った弟二人も帰ってきている、姉弟全部生きている母は嬉しかったろう。

 姉が帰れたわけはS20/8/15の惨事の後ソ連の当時下になり院長はソ連から来る、姉はソ連語を覚え働いた、炭鉱はどうなったかわからないが病院だけは残った技能者は憂惧された。

本国へ帰還が迫った妻帯者は優先となった、姉は事務の人と仮婚姻で帰ることになった、院長は「帰るな」と懇願されたが(院長は看護婦より資格がなかった)仮婚姻が男と女結ばれてしまった、そのまま本州北陸に渡った。

 

 旧家子供が生まれるが姑折り合い悪く、生まれ故郷に帰ってきたのだ。

母はそのこと知らずに帰還船が来るたび2年くらい駅に行ったのでした。

 姉が来てから働き手が増えた姉と一緒に卵買いに行った。

統制違反の豆類など函館に担いで売ったすぐ売れた、それを白米に変えて持ち帰った、駅員は子供だから見てみないふり通った。

 

 その時期は国民学校が小学校に変わり高等科2年は廃止され新制中学になった時期です。6年卒業、第一回小学校卒業が私の時期です。
 母は働けと言ったが、「制度義務教育になった新しくなった」からと告げるとがっかりしていた。 その時期から玉子買いながら10kmを超す田舎道、姉と話をするようになった。 姉のことを知る由縁です。

 一年に一回札幌で樺太の炭鉱の慰霊祭があった。その度昔を偲んだ。 

姉の旦那様が迎えに来た、玄関から家に入らなかった、母はいない、姉は風呂敷一枚で来ている、支度もかんたん、すぐ帰りの汽車に乗っていった。

 このひと夏の出来事です、母に告げると働き手が無くなった、夕飯つくるのをしないでションボリ座っていた、姉は姑に尽くし人生を全うした。

波乱の人生だった。 

 

 新制中学時代は今まで通りに母を助け働いた。当時は進学組と就職組に別れ

就職組は勉強しなくても何も言わなかった、先生は釣りが好きだった「によ今度どこにいく」と囁いた、私にとっては良い先生だった。 

 時代の流れ流通が良くなった、玉子買いもだめになってきた、大家の息子さん復員、部屋を出ることになった。今度は6畳ひと間、母は夜働く事になった、母にお金をつぎ込むおじさんがいて父に似ていた。

  この一間が良いらしく、時どき泊まっていった。晩酌を呑みながら「ここが一番気が休まる」と言いながら母と話をしていた。

 恋やぶれる
新制中学卒業やっと働ける街の建具屋に丁稚奉公、月500円の小遣いくれ、た、今のお金にして2~3万くらい、母に持っていくが、「お前が働いたお金貯金しておけ」と取ってくれなかった。

丁稚奉公2年位立った頃、同期生の女性好きになる。

これが私の人生変えてしまった。

 花火大会座って花火を見る胸はドキドキ何から話をして良いのか思い切って「私と付き合って下さい」と打ち明ける「私には好きな人がいます」と返事!!!

建具屋の部屋に帰るが眠れられない、「母に用事があると」休みをもらって出る。

貯金を下ろし登別に行く。

 

 初 体 験 
 登別地獄谷に飛び込もうと思ったが勇気がない!やめて最後だ!あるだけのお金使って旅館に泊まって死のうと薬局で眠り薬(ブロバリン)を買う。

温泉に入る気にもならない、料理は喉を通らない、薬を飲もうと思ったが旅館に迷惑かかる・・・夜になるが眠れない眠り薬は死ぬために買ってきた『待てよ俺はまだ女を知らない知ってから死のう』温泉街に出る。

 当時は温泉街に売春宿があった、中小路の飲み屋に入り飲めない酒をちびりちびり『俺は死のうと思っているのにこんなところに』最悩まされていると、30過ぎた美人でないが着物を着た優しそうなおばさん「お客さん二階で飲まない」?声が出ない!

おばさん黙って徳利つまみを持って2階に上がる。

 おばさん着物を脱ぎ布団に入る、17才初めてのことどうして良いのかドギマギ、さっきまで死のうと思っていたのに死ぬのを忘れてオロオロしている。

 おばさんは母の身体に似ている「おばさん」「おばさんって言わないで」怒るが優しくなる、母と同じからだだ「子供いるの」「二人、旦那は戦地に行ったきり帰ってこない」と黙り込むが、私が何もしないから「あんた失恋したのでしょ」

 私は黙るだけ、貸し切り時間が来る。

5百円前払い(1時間500円だったと思う定かではない、今のお金にして2万円くらい、行動しないから気の毒に思ったのか「旅館どこ」 何も出来ない自分がなさけ情けなかった、旅館に帰り寝るが寝れない、おばさんのことが頭一杯!死ぬ気忘れている、温泉に入る、気が楽になる、2~3日寝ていない、ぐっすり寝てしまう。

まだ続きがあるが聞く人はうつっぽくなるようだやめとく・・・

 

 朝早く置きて温泉入りもう一晩泊まって帰ろうと何も食べていない、腹が減ってきた温泉に入り何かしら落ち着いた死ぬ気なくなった、朝ごはん食べる・・・

仲居さん『このお客さん変だ』と気づいたのだろう警察に届けたと思う「ごめんください」仲居さんと刑事が入ってくる、刑事はすぐ睡眠薬を取り上げる封を切っていない刑事安心する。

 「お母さんから捜索願でています明日迎えに来ます待っていて下さい」「私は大丈です明日帰ろうと予定しています、ご迷惑をおかけしました」心配そうに刑事帰る。

 

 私は気も身体も疲れ果ておばさんのことなど忘れぐっすり寝てしまう。

翌日母の好きなおじさんが迎えに来てくた、おじさんは「若い時はこんなこともあるさ」理由を聞かない「お母さんが心配している帰ろう」本当のお父さんのようだ。

あのおばさんに会わなかったらどうなっていたろう。 生涯の思い出です。

 

 帰り汽車の窓に写る自分『親からもらった命、大事にしなければ心に誓う』建具屋に

帰れず母のもとに帰る、母は台所で後ろ姿さびしそう「おまえどうしたの」黙る「あす建具屋さんに断って来るからね」私の気持ち察している。

 おじさんは「わたしのところにも建具屋はあるそこで働け」と仕事の世話をしてくれた。

おじさんの所に行くが、母も故郷を捨て一緒にくる。

 母の転機
母は親戚の目が耐えられなかったのだろう(おじさんの事)私は住み込み、母は二間の家に住む、町の食堂で働く、弟は釧路で働いている。

 母は子育て終わりおじさんお世話受けている、本当に良いおじさんだ。

母はおじさんを好きなようだ私の父に似ている、妻子のあるおじさん母はおめかけさん・・・

母はなりふり構わず子育ての意気込みは誇りに思っている。
 

 おじさんの世話で建具屋で働くが何かしらしっくりしない、親方は何かと母のことを聞く『嫌な親方だ』休みに釧路に行く、釧路は景気がよく仕事もある新天地だ!ここで働くことにする。

 兄が事業を始めた、母を連れにきた母が心配で母の家に行く窓から部屋を見る、おじさんと母、母は下を向き寂しそう!入るのを悪い帰る。

 あの時は別れ話だと思う、妻子ある男性好きになったのだから仕方がない。

私も、もう大人母の気持ちわかった。それからしばらくして母は兄のもとで働く。

これ以来母は女を捨て死ぬまで兄の所で働く、女の一生です。

母と兄は、母の念願の自分の家、会社を築く。

 放浪の旅
放浪の旅と言っても職業を転々と変えただけです、建具屋の親方は私を違う目でみる、さんの義理で私を雇い入れたなんとなくわかった。

おじさんに「釧路で働きたい」と言うと「お前もか」おじさんは寂しそう「親方知っているのか」「明日言うつもりです」「そうか頑張るのだぞ」「おじさん今までありがとう」おじさんお目は真っ赤、それ以来おじさんと会うことはなかった。翌日親方に「母が心配で家に帰ります」とごまかす。

 親方は母のこと知っているから了解してくれた、俺も世間なれしてきた。

釧路は前もって仕事見つけておいた、当時は先ず食べること、住むことが先、決めてあった、住み込みでお菓子の配達とお菓子の下ごしらえだ。

 配達は菓子製造工場から売店の往復、お得意様の配達、太陽の下で働く、私にあった仕事だった。

 

 お菓子製造の仕事が忙しくなり手が足りなくなる、工場に回される。 

朝5時起床、ボイラ-を炊き、職人さんが来るまで下ごしらえをする。

 8時になると職人さん出勤、工場は忙しくなる。下ごしらえの女性と一緒につくる気があっていないとはかどらない二人が一つになる事が多い、『愛ちゃん』に仕事教えてもらう、働いている内後ろに目があることに気づく、菓子職人が愛ちゃんを好きなようだ、愛ちゃん20才美人、私より一つ上、私は失恋の痛手癒えていないそんなところではない。

 ある日昼食後資材が気になり倉庫に行く、愛ちゃんも走ってくる愛ちゃん「あのひと嫌いひつこくて」職人の事わかっているから「給料が良からいいしょ」「給料ではない」私を見る目が潤っている。

 一年半も一緒に仕事をしている、下ごしらえ、二人汗水流し、手が触れることがあるが一つになることが多い。

 恋愛相手考えもしなかった、菓子職人になるのは7年もかかる。

この仕事俺にあっていない、職人の目気にして働くことはない、職人何かに付けて仕事に難癖つけてくる。

社長に(菓子職人)に正直に「私はこの仕事向いていませんやめさせて下さい」社長「誰でもはじめはそうです、あなたは手先が良い、辛抱しなさい」と言ってくれるが!

 一年で羊羹練、生菓子の餡練り焼き物下ごしらえ、愛ちゃんのおかげだが!

1ヶ月後辞める。

 蒲鉾製造業で働く
母のいとこ叔父さんは蒲鉾製造業、人手が足りない、腰掛けで働くことにす。

20才これで良いのかと思いながら働く、自分は何に向かっていけばよのかそのうちわかるだろう。

その内何かが見えてくるだろうと運を天に任す。

 蒲鉾製造もお菓子屋と同じ朝4時起床、ボイラ-を炊き、叔父さんが起きるのを待つ、父さんは蒲鉾の下地、練り製品の調合、これは叔父さんの味、私は見ているだけ、誰も手を付けない、独自の味皆様が買ってくれる先祖代々の味だそうです。

 蒲鉾の下地出来た頃職人さんが出勤、蒲鉾の製造が始まる。私は釧路駅に行商(がんがん部隊)のおばさんに注文を取りに行くスパ-のない時代、天ぷら蒲鉾はよく売れた、注文を取り工場まで急いで戻り注文の蒲鉾を箱詰め又駅のおばさんにわたす、これが私の仕事。
 昼から魚の下ごしらえ、魚の身水にさらす冬は辛い夏は魚傷む、仕事は3時に終わるが、大変なしごとだが、何も考えず働いた、このような仕事が山に行くようになってから役に立った。

 

  一年なんとなく過ぎた、私の転機が訪れる、私には因縁のようなものが憑いている。

蒲鉾職人女中さんに恋をする、薄々感じていたが、彼はおとなしい無口な男。

昼休み、彼は青白い顔している「どうしたの具合でもわるい」と聞くと「死にたい」一言「どうしたの」黙り込む、.失恋したのだろう。

 私は経験者だが彼の気持ち分かるが、私は若いなんとアドバイスしてよいのか言葉がでてこない。 

翌日彼は仕事休む、2~3日と無断欠勤、親の家に電話するが帰っていない。

叔父さんに「捜索願出して」お願いするが「そのうち帰ってくる」とはねのけられる。

 5日目函館連絡船から訃報が届く、津軽海峡に飛び込み自殺。

自分の不臥なさ何も出来なかった、叔父さんに当たる、叔父さんと口効かなくなる、その時母が来る兄が仕事忙しく手伝ってくれと持ちかけられた。
 母の助け舟、辞めるのに丁度良かった、兄の所で手伝うことにする。

その後叔父さんに会うが「まさか連絡船から飛び込むと思わなかった」と言っていた。

 叔父さんが悪いのではない。私がなんとかすればよかったのだ。

 兄の手伝い  1954年前期
当時北海道農業改良の時、小さな開拓農家は副業に牛を2~3頭飼うようになる。

それにサイロ、牛舎を造られなければならない。国の補助も出ている。

兄はサイロ建築の下請け十勝の山奥で電気もない所での作業、太陽が上って陽が落ち仕事終わり、 兄はタバコ吸わない働き者、私も負けずに一生懸命働いた。

建具屋の経験がものになった、2週間の仕事10日でやった。

 あの一年間.兄は儲かったと思う、この仕事夏場だけ冬は失業保険だった。

兄の家で何もすることなかった、友達の家でマ-ジャン負けることが多かった。

こんな事していたら駄目になると思い札幌に出てみる。
 
 門 出
日本は発展途上国、札幌は田舎と違って目にするものは何でも新鮮に見える俺の住む所はここだ!運転手募集の看板目につく新しい運送会社、運送と言えば父がやっていた仕事だ!私の天職!ここに就職決める。
帰って兄と相談するがはじめは反対されたが許してくれた。

布団、竹行李、手提げカバンを持って札幌へ行く。

札幌駅に着く『五月晴れ』私の門出、なにか見えてきた。

 

 小型運送会社に入る  1955年中期
小型トラック運送会社の入社手続きをすませ明日から会社だ、下宿を紹介してもらう、会社から歩いて5分便利が良い。初めての一人部屋の生活、今までは住み込み屋根裏で4~5人の共同生活、雲泥の差だ私に光当たりだした。

翌日下宿のおばさん弁当つくってくれた、すぐ会社、会社の看板まぶしかった。

 

 社長からの訓示
「車一台あなたが管理します大事に使って下さい」中古だが自分の車だ『よろしく』と車なでる。奥さんの配車、今日の仕事は長沼町まで鉄の大きな煙突。

奥さん気さくな人だ「そこに地図あるから道わからなかったら持っていきな」気を使ってくれた。

 鉄工所に行くが煙突デカイどうやって積むのだ!クレンでで積んでくれた「向こうにもクレンあるから心配するな」と教えてくれる。長沼町探して煙突おろす、帰ろうとすると「この荷物札幌まで運んでくれないか、いつもの半額だからよろしくな」札幌で荷物おろすが3000円くれる、俺の給料12.000円だ帰り運賃?知る由もない。

 会社に帰って奥さんに事情を話し三千円をわたす。奥さん私の顔まじまじと見る?・・・

僚にこの話すると「このような時は運転手のよろくだ」と笑われた。

こんな事何度もあったが必ず届けた。
 仕事が慣れてきた、酒の問屋の仕事が多くなる、酒の問屋の仕事は慎重な運転を要求される(後でタクシ-運転に役に立つ)酒瓶を割ると自己負担給料から引かれる。

半年で新車くれる。新しい会社増車していく、今年は30台、運転手予備含めて35人、古い運転手は私をねたむがいっぽ会社でれば自分一人、帰れば何人か同僚いるが気にならないねたまれても気にならなかった。

 1958年2月
 配達中死にそうになった事がある。

2月厳寒期石狩方面に酒問屋のセ-ルスマンと酒満載、配達と集金に行く。

当時渡船で石狩川を渡り小売店に酒を降ろし帰り風が強くなる、富岡と八幡の中間の所で吹き溜まりにあい車動けなくなった。
 降りようとする体にまとうものなし「車の中で吹雪くのを待ちましょう」というが「八幡まで行く」と歩き出す、冬道の怖さ知らないようだ、5分過ぎた、私は心配になり歩いてみると吹雪で先が見えない! これは大変!きっと行止っていると思い車に戻り座布団をかぶり探しに行く200mくらいの所でうずくまっている。

 背負いように車にヤット戻る、車の中は暖かい16時薄暗くなってきた吹雪は収まってきたが車は吹き溜まりで動かない小型車ではどうすることも出来ない。

 田舎道車はまったく通らない(当時は除雪体制が悪かった)「燃料はあります車で寝ましょ」寝る段取りしていると後ろからライト車が来たトラック大型だ吹き溜まりかき分けてくる、『助かった』牽引してくれるよう頼むが「走るだけヤットだから無理です八幡まで乗せてあげます」と便乗させてもらう。

 八幡の旅館に落ち着く、-ルスマンは会社に電話、私も奥さんに電話「旅館代こちら電話するから心配しないで車のこともこちらで手配するから、事故でなくてよかった」と心配してくれた、セ-ルスマン「命の恩人です」二人並んで床につく。
 

 翌日大型4WDトラックで牽引してもらう。あの頃は石狩方面は冬季は難所、気をつけないとこのような吹雪に遭う。現在は除雪体制がも揃い大橋も出来車の通りも多くなり大丈夫です。 

 しばらくして酒問屋から金一封もらう、セ-ルスマンあの時死ぬかと思ったそうです。

 

 電気会社専属運転手になる 1960年頃
2年過ぎる、真面目さがかわれ大手電気会社(電気器具卸会社)専属運転手に回され。ここまで来るのに会社に認められなければならない。同僚の憧れの場所です。

 電気会社の宣伝の入ったライトバン乗用タイプ、服装は背広ネクタイ、大手企業と同じ服装、生まれて始めてネクタイ締め方何度も練習した。

奥様は「楚々のないように頑張ってね」と励まされる。学歴のない私を見てくれる、この会社に骨を埋めると心に決める。
 
 販売会社の仕事はサ-ビス部門(修理)この会社は自家用を持たず全部チャタ-車。

サ-ビス社員を乗せて電気製品に欠陥があれば北海道中修理して回る。

 転だけでよいのだが、修理アンテナ取り付け私の出きる事は何でもやった。

慣れてくると小売店など社員と間違えられた。

共聴アンテナ設置のときは作業服に着替え社員と一緒に仕事をやり社員だった。

小樽に電気会社の出張所が出来る。

 奥さんに呼ばれる「今度小樽に電気会社の出張所が出来ますそこは販売部門です所は本社からきました、小樽に転勤して下さい」びっくり「この大役勤まりません」と辞退するが「あなたしかおりません!長命令です!小樽の会社の3階1部屋空いています、そこに自炊して下さい」会社命令!奥様に戻って「誰でも行かされないの、事務所2階の倉庫の管理もあるし貴方は身なりも決まっている!

 自心持って頑張って下さい」と転勤命令下る。母がよく言っていた『男は身なり肝心!

びしっとしていると心が閉まる良い服を着れ』といつも言っていた、背広は注文仕立て生地は良いものを選んだ、喪服、4期を通しての背広84才まだ着れる、服地が良ければ末代物です。 

 大型ル-トバン新車、所長を入れて9名の出張所、皆さんも事務ベテラン、顔馴染み良人ばかり、所長さん若いが歓迎会を開いてくださいました。

 自炊、鍋、コンロ買うのに女子社員手伝ってくれた、3階に住まいを構える。

倉庫の中を通って行くのが難点・贅沢言わない・・・所長独身背が高くかっこよい、下宿をしている。先ず朝8時所長迎えに行く。

 9時半ころ車に電気製品積んでセ-ルスマンSさん(コンビになる)小売店に卸販売に廻る。

 販売にならない時は配達5時過ぎ所長を下宿に送り会社に戻る、鍵をかけ事務所倉庫を.見回り3階も倉庫の角の部屋10畳私が住むのに改造してくれた。 続く

『人生振り返って4へ続く』