人生振り返って・4 | 63歳からの登山

63歳からの登山

87才から山頂に行けなくなった。
88才から複数登山にする。
登れなくなるまで登ってみる。
89才どう生きるか老いを綴っていく! 

  人生振り返って・4


   結婚の話 1960年頃
 給料15.000円、白黒テレビ5万円の時、卸問屋だから3万5千円でテレビ買う、俺もテレビ買えるようになった退屈しない。

  炊事はお菓子屋、蒲鉾やの仕事、飲食業の孫だ、苦にならなかった。

同僚は次ぎ々と結婚していく。俺もそろそろかなと思うようになる。

 25才結婚の話大手の電気会社の仕事をしているから販売に行くと社員と思っているらしい。

 田舎の小売店、年に2回の特販日、製品を積んでコンビのセ-ルスマンSさんと小売店に泊まり込み販売、今日は田舎のお祭り、店の前は人、通り多いこの小売店子供のいない夫婦で経営している、私が店に立つと、養子に来たかと間違えて「!??さん」浜弁わからないからニッコリして電気製品の説明

 「婿さんの顔立ててテレビ買うか」「いやいや婿さんでないよ」と言うが一台売れた。

店主を呼びに行く、驚いた顔で契約。取り付けはお手の物すぐアンテナを持って取り付けに行く。

 昼までに帰ってくる店主『早い早い」と喜ぶ、店でSさんテレビ1台売る、昼から取り付け、お祭りだから1ケ月の売上1日で上げたと店主喜ぶ。

 今日は小売店に泊まる、店主とSさん酒酌み交わし、店主酔っ払って「家の養子になってくれないか家に良いお嫁さんいる世話するよ家に来て」Sさん「良い話だ養子にいけ」酔った機嫌で勝手なこと言っている、翌日昼まで大売り出し手伝う。

奥さん帰りに「昨日話し考えて下さいね」手を振ってわかれる。

 一週間過ぎて配達に行く品物を降ろし帰ろうとすると「掃除機届けて説明もお願いします」とたのまれる、農家の大きな農家、娘さんが出てくる「掃除機届けにきました」使い方説明するがなにか変だ説明聞いていない一方的に説明「ありがとうございました」と帰る。

 店に戻って「品代月末に払いますと言っていました」帰ろうとすると「あの娘さんどぉ・・・」「綺麗ですね」「気に入った」?あれ見合い!奥様らしい「ありがとうございました」逃げるように帰る。

養子だけはごめんだ、なんと返事したらよいか!今度行く日憂鬱だ。 

 

 何日かして配達に行く、奥様「あの娘さん貴方を気に入っているよ、話すすめるよ」「ちょっと待って下さい、私給料少ない結婚どころではにです」奥様「家に来るから関係ないです」一方的「実は好きな人がいます」奥様がっがりした顔「そうですか」悪い嘘言ちゃった。

 『心で謝る』次の配達、生花の日、娘さん5~6人お花いけている奥様「うちに来るとお嫁さんよりどり見取りだよ」品物扱いだ。将来婿さんに生け花を教え、後を継いでもらいたかったらしい。

 Sさんが言っていた。

 

 私の骨を埋めるのは運送会社だ、小樽に来たから1年になる、会社は何も言ってこない。

車一台預けて何も管理しないのかと思う時がある。給料は小樽の販売会社通して支給、販売会社は売上が多いと別に上乗せしてくれる。社員のお父さん洋服仕立て屋さん、上乗せのお金で四季の背広4着つくった。  

 

 販売会社札幌支店に所長と来るがその時運送会社によるが、奥さん「元気でやっているかい」顔を見るだけ仕事も車のこと一切聞かない、社長も奥さん任せ、何も言わない、販売金の上乗せうちあけるが.「それは貴方のものです運賃と関係ありません貰っておきなさい販売会から聞いています「事故だけは気をつけて下さい」心の荷消える。

『あれ!車の私用も報告されているのかな』所長は倉庫の管理までさせている悪いと思ったのかビル管理会社に委託した。

 ヤット倉庫から開放される。会社の近くのアパ-トに移る。 
大家さんは女性、世話好き販売会社の社員と思い見合い話持ってくるが運送会社だとわかれば自然消滅、破断になる。親が反対するようだ、あせらないそんな話はごめんだ。

  運送会社の倒産
小樽出張所も忙しくなり自家用車が入る、私の仕事も楽になる、チャタ-料、高いが使ってくれた、所長は私を採用したいようだった、「これをきっかけにうちに入って仕事をして下さい。

君のためにも良いのでは」と言ってくれましたが、会社が心配「会社に恩義があります、札幌へ帰ります」所長は送別会をしてくれました。

社員一同記念に銀のネクタイピンを戴く。見るたび当時思い出す。

  

 小樽は青春だった。楽しい思い出たくさんあります。
淡い恋もありました、もし彼女がこれを見たら私のことだと思うことでしょう、80才だと思います。 

日本海の小さな漁村、共聴アンテナ設置で1週間宿に泊まる。宿のお手伝いに近所の女性。

花嫁修業に賄いで働いていた、私は仕事を終わると台所で宿の主人と話していた。

  笑顔で話に入ってきた。 気の優しいおとなしい女性でした。宿の主人に頼まれ、隣の港に魚を取りに行く帰り、海岸に降りて二人でなまこを取った、海岸に座り海を見る。

私の生き様など話を聞いてくれた。 

お父さんは教育者、彼女は一人っ子大学卒業、私には手の届かない人だ。・・・ 

海を見るたび思い出す。

 
 所長の出会いで

行けない所、入れない所、所長の鞄持ちどこでも入れた、世界でも有名な会社だからです。

所長は翌年東京本社に栄転された。

 カラ-テレビのない時で、なんせ売れました。小樽転勤のときは荷物少なかったが帰りはル-トバン満杯財産増えた。車は新車できたが3年使った、色あせ時の流れだ。

 札幌は小型運送会社が増えた過当競争、お客さんの奪い合いだ。
 

 事務所に着くまで何も変わらない「ただいま帰りました」知らない人が二人社長机に座っている会釈する、二人共、察していたようだ横の机に社長奥さん「こちらが専務さんと常務さん」と  紹介される、新しい上司「よろしくお願い致します」上司二人「こちらこそ宜しくお願いします」笑顔の良さそうな上司ほっとする。

 社長は下を向き黙っている、奥さん「この運送会社は**会社が引き継ぎます、これからも変わりません仕事もそのままです心配しないで働いて下さい」専務、常務も「今まで通り働いて下さい、あなたの事は聞いています」社長は事務所を出ていく寂しそうな後ろ姿・・・

 

「アパ-トに荷物降ろしてきます」「今日は休んで下さい」常務「明日から家電修理サ-ビス部に行って下さいお願いします」今度から奥さんの配車ではない気をしき締める。

アパ-トは会社の近く荷物を収め部屋が狭くなる二間いるなと部屋見渡す。

  見合い 1,962年 
27才最近結婚はどうでも良くなってきた、好きな人とは結ばれない、結婚の気持ち薄れた、縁戚のおばさん見合い写真を持ってくる。

写真を見て「おばさんに任します」おばさんは世話好き、すぐ見合い26才きれいな人だが笑顔がない。

 おばさんお世話、悪い人でないと返事する、見合い相手とドライブするが相手は楽しい顔ではない伝わって来ない・・・

話は進み、結納、式場、日取りまで決まる。

  俺の独身終わりかなと思うが、デ-トしても話がかみ合わない、私の話堅いのか、つまらないのか情が冷たい。 4度目デ-ト彼女「あなたは私に過ぎた立派な人です。

この話ないことにして下さい」程度の良い断り!26才なにかあるなと感じていたが3日後結納を持って断りに来た。 

 おばさんは「あんな人とは思わなかった好きな人が居るようで今は別れているが御免ごめん又良い人紹介するよ」と一方的だ、私何も言わないうち帰ってしまった。

 私のこと心配してくれる怒るに怒られない!困ったことに母兄になんと言い訳!

日取りも決まって知らせている。式場だけはキャンセル日取りは9月吉日。


  結婚話 最後の見合い
7月中・母、兄になんと言ってよいのか思案困った。おばさん又見合い写真持ってくる。

前のことなど忘れているのか・・・

 おばさん「今度は間違いない良い人だからあってみて」と写真を見せる、縁戚のおばさんだ心配してくれる。義理で写真を見る。笑顔が良い「田舎の商店で住み込みで働いている」私の心が動いた。

私も住み込みで働いた。あってみることにする。

 

 7月末の花火大会おばさんの顔立ててあってみる、私も見合いずれなんとも思わなくなった。

花火大会見に行く、おばさんの話しながら見に行く、前のこと知っているらしく気楽に話せた。

又だめになると思っていた、家に帰って「おばさんに任せます」一週間後相手店をやめて親元に来ている、これは大変向こうは本気だ、 先ず本人と話する。

 ドライブに行くが積丹半島1週途中パンクした二人でタイヤ-交換この人は 苦労人、俺にあっている人と決める、先月の破断になったばかりだが、これを逃しては一生結婚出来ないかもしれない、相手のお父さんも乗り気だ、農業をやめて札幌で間貸しをやっている。

 

 ご馳走になったお礼にお父さんの家による、お父さんは私のお金ないことを知っているらしい。

お父さん「わしの家で結婚式あげて下さい」そこまで運んでいた。お父さんの家は4つの部屋戸を外せば大広間になるお願いする。何か自然に進んでいる・・・

 前回の破断、母兄に言えずそのままになっている、母は字が読めない電話がない、どうしょうと思っているうち、婚礼が来てしまう。母兄は式時間ギリギリでくる話する暇がない。

 なんとなる兄は前回来ていない、母は苦労人私のことは何でも知っている、話し相手だ。 

三三九度もお父さん!母はお父さんが違う!嫁さんも違う!目を白黒!母に目で合図・・・

母は私を信じている、何事もなく平然としている、お父さんの三三九度黙って見ている。

 三三九度も終わり、母はお礼を言いヤット身を固めたホットとしている。

母は苦労人、息子になにか合ったと思い何も言わなかった。

 お嫁さん一目見た途端わかったと思う、兄は前の人とあっていない、名前違うくらいしか気にしていない、一生懸命やっても駄目なものは駄目、この様に自然体で結ばれる。

  職業の転機1963年

土壇場の結婚式だが母は安心して帰っていった。

兄は私のゴタゴタ知らない、無関心だった、それが私の気をらくにした。

 母兄は一緒に住んでいるようだ先ず安心する、結婚生活に入るが、炊事洗濯の仕事が無くなった、仕事一本だ。

妻の実家5分も歩けば良い、何か合っても安心して働けた。 

 

 当時の給料15.000円子供で来たら生活ぎりぎり、同僚はタクシ-会社に移っていく、二万円以上稼ぐらしい、私もタクシ-乗ることにする。専務に辞職願いに行く、現状を言う「給料が安く子供出来たら生できません」専務、常務顔を見合わせ「ちょっと待って下さい、秋に小型トラック協会10周年があります、あなたは表彰を受けることになっています。

 辞められたら困ります」専務「あなたは前の会社から引き継いで奥様、小樽の所長から功績を聞いています、我社から推薦しました、今辞められたら私達の面子がありません」二人頭下げる。

奥さんの義理一年たったから良いと思ったがもう少し伸ばす事にする。

 

 小型トラック協会10周年表彰を受ける、専務、常務ホッとした顔で見ている。

銅製のバックルを戴く、表に北海道地図1963年刻印、裏には小型トラック10周年と打ってある。 

重く丈夫なバックル今でも私の腰に収まっている、革バンド3回取り替えている。

 専務、常務、私には良い人でした。専務家に送ったあと家に入り小樽の事聞いてた。

  良い上司に恵まれたが・・・

会社の内容が変わってハイヤ-部から配車課長がくる権限が課長に変わる、古参の運転手は格下げ、私の仕事もハイヤ-部門から来た人に変わる、私は倉庫に回される。

 電気会社の課長「うちの会社に入らないか」と言ってくれたが大手会社学歴がないと上に上がれない、当時電気会社は給料安かった。
 
 半年経ち専務に辞職願う「どこか決まっているのですか」「ハイヤ-会社にいきます」「我社にもタクシ-部門あるが紹介しますか」タクシ-部門から来た課長の顔思い出し「考えさせて下さい」と同僚がいる会社に決めた。

    

 子供授かる 1965年 
私30才妻23才結婚して3年目、生活ぎりぎり3年間共稼ぎそろそろ子供と考えていたら授かる。 

6畳ひと間の間借、生活大変、給料の良いタクシ-運転手になる。

簡単な入社試験、2種免許は会社で取らせてくれる、代わりに3年以上勤務の条件で入社。

 タクシ-乗務、当時日本は景気の良くなる前兆でした。百円札が財布一杯になるほど稼げた、給料も倍になった。

 子供ができるので一生懸命働いた、6畳二間の部屋が空いた妻の実家の家に引っ越し、妻も気楽私も安心して稼げた。昭和41年男でも女でも良いと思っていたが念願の男が生まれる。 

タクシ-勤務は昼番、夜番と交代、夜番、昼寝ないと疲れ居眠り運転になる。

 妻は私を休ませるため、よく実家に行った、子供泣き出す、実家は廊下続き本当に助かった、夜泣きアパ-トの人に迷惑をかける、子供を背負い外に出る事何度もった。

 タクシ-運転13年65万キロ無事故運転賞状は妻のおかげです。

 

 家を建てる 1968年 
3年経った子供大きくなった、帰ると妻子がいるヤット描いたことが実現した。

今度は家だ!会社の売り上げ1・2を争うこともあった、家を建てるのに資金が足りない、当時住宅金融公庫の貸し出し、105万借りようと計画練る。 

 

 先ず設計図(建築面積百平方メ-トルまで建築士の資格いらない)だがうまく書けない市役所建築確認課に4回指導して貰い申請通る。住宅金融公庫も融資受けられたが、家を建てるのに資金が足りない、親戚の大工叔父さんに頼んで私と妻が手伝う。

 建具や、兄のブロック積みがここで役に立つ。煙突造りは妻2才の子供を背負ってブロック積みを手伝う、出来上がると!震度4の大地震!ブロック煙突倒れるかと思った。

 タクシ-勤務一昼夜交代になっていた。明け番は休まず家造りをした。

2ヶ月かかって、大工の叔父さん私、妻3人で出来上がる。住宅金融公庫の百5万円で余った。

13.5坪の平家80万円で建てた、塀、家の周りの庭明け番に造った、小さいが庭付きの家が建つ、タクシ-勤務一昼夜交代、事故もなくよくやってこれた。


 1969年20万キロ無事故表彰を同僚3人受ける。
東京、鎌倉に招待旅行。帰り同僚と別れ、妻と遅まきの新婚旅行箱根方面2泊3日行ってくる。

子供は親の実家に預け、実家にいると特をする。仕事も順調タクシ-もベテランになる。

 7年過ぎる。30万キロ無事故表彰私ひとり受ける。

  今度は家族慰安の2泊3日の登別旅行親子3人で行く。

    

  50万キロ無事故表彰 1975年 
今回は会社始まって以来の50万キロ無事故表彰達成で、同僚と2名表彰される。

ガァム島招待12月に決まる。北海道新聞に出る、新聞に出て照れる。

 10月末一緒に行く同僚、胃の具合悪い病院で検査、ガンと診断末期、12月の旅行中止になる。 

2人行くのを楽しみにしていたが・・・
 
 私一人で行くことになる。手続きは会社の旅行部が全部やってくれた。

当時は1ドル360円時代、海外持ち出し5万円、旅行代は9万円だった。海外旅行は高かった、会社招待だから行ける、ありがたかった。初めての海外旅行、英語はまったく駄目、羽田に着くが新婚さんばかり、なんとか飛行機に乗る。 
 

 3時過ぎグアム島が見えてくる、無事グアム島に着く機内から出ると30度をこす気温、北海道と雲泥の差だ。背広汗だくになる、会社関係のホテルに着くが内装が悪いブロック積みに色塗っただけ、渡り廊下は壁なし天井に青い虫が張り付いている,でんでん虫はデカイ!外国はボ-イにチップ上げないといけない当時は(クエ-トドル)4/1ドルだが穴の空いた50円玉  2枚上げる、ボ-イ珍しそうに穴除くチップの相場当時90円。

 

 Tシャツに着替え海に出る紺碧の海、青い空!南国だ!海に入って見る、色とりどりの魚、足をつついでくる熱帯魚。昼飯食べていない、ホテルプ-ルサイドのスナックなにか食べようとしたが日本語通じない、単語ならべるが、だめ、近くで食べている人のみて指をさす何とか通じた、この頃まだ円安、人もまばら、ヤシの木がなびく太陽が真っ赤に落ちる!

 南国風景、何も考えず見惚れる。部屋に入るがラジオ英語『早飯にするか』レストランに行く、先ずエビ料理、係がくるメニュ-英語だが指差す、「エビ料理ですね」なんだ日本語わかるのか無事この日終わる。

 

 2日目・枕チップ50円玉2枚置く。島廻バスに予約バス1台全部新婚さん、新婚さんの邪魔になるのでガイドさんの後ばかりついていく。横井さんの隠れていた所を案内、よくこんな所に住宅はすぐ近くにある?食べ物は川に行けば魚はいる暖かい生きられる、横井さんなんで隠れていたと思った。

日本兵降参できなかったのだろう。

 

 観光も終わり、又ホテルの裏の浜辺に行く、誰もいないと思ったら、現地の若者笑顔で近づいてくる。『タカリかな』と思ったが・投網を持って居る面白そうだ!魚のいそうなところへさっと投げ小魚かかる」これ食べられる」「?」日本語わからないのだ3回ぐらい投網する20匹ぐらいとる。彼、網を差し出し、やってみろと手真似網をよこす、3回やるが網が開かない、若者笑い出す、手真似でなんとかなるものだ。「I'm niyo」通じたか「ポ-ル」ときた。
 ホテルに帰ると、ポ-ル、ボ-イと話ししている。ボ-イ「ポ-ルが明日クル-ザ-で無人島に行くから行きませんかと言っています」硫黄島に行きたかったが早期予約でないと駄目らしい、無人島に行くことにした。

 3日目・ポ-ル迎えに来る。ヨットハ-バ-にクルザ-?古いが一応クル-ザ-だ。

新婚さん3組乗ってきた。クルザ-に乗ると波を乗り切ると船底叩きつける迫力満点。
 無人島に着く、クル-ザ-は帰ってしまった。?言葉が通じない『ポ-ルも一緒だ心配することない』-ルと島歩く小さな無人島水は椰子の実、ポ-ル木登りうまい椰子の実、落として割って水を飲ませてくれた、現地人の飲水のようだ。白い実は食べるがまずい、ポ-ルはうまそうに食べていた。 
 4日目・空港免税店当時高かった洋酒ロ-ヤルサ-ルト3本とタバコ2百本、円、ドルとどちらでも買えた、グアム島以来私は仕事に関する考え方が変わりました、のんびりするようになり、子供と遊びに行くようになり、性格を変えるきっかけになった。

 グアムの若者ポ-ルとの文通は3年続く近所の英語のわかる人に訳してもらい、ポ-ルとのエアメ-ル私のグアムの思い出です。

ポ-ル、ミクロネシアから出稼ぎで、帰ってから音信不通になった。どうしてることやら・・・

 無人島だが住めそうだ。帰る時間が来るとクルザ-迎えに来てくれたヤレヤレ安心。

ボ-イに明日帰るからポ-ルの住所聞いておいて貰う、洋食ばかり食べていたので日本食こいしくなり定食にする、鯵のような焼き魚、味噌汁、小鉢3品これで5ドル(1.800円)外国のホテル仕方がない。
 

 個人タクシ-に挑戦 1973年 
この頃から個人タクシーを狙い始める。先ず車庫、家のロンは返した車庫の土台妻と二人で造り上げる、大変だが家を建てた経験が早く造れた。
 資金は家土地担保でで150万円借りられた10年月賦で契約、車庫も出来た。

仕事は無理せず毎日平凡に暮らす。38才少し勉強するかと自動車六法を買う、読むが難しい。

運送法、車両法、地理からの試験、先輩方は有料の講習会に行くが私は独学で勉強する。

39才『個人タクシ-申請書』だす。
 

 模擬テスト家内に自動車六法から試験でそうなところを抜粋して問題集を書かせる。

妻は面白がってひねりながら作る、客待ちの時、問題を解く、試験日近くなって回答80%越せるようになった、これなら行ける自動車六法を棒読み。試験日・試験場前大通り公園で出そうなところを棒読み、試験場に入る、 答案用紙がくばわれる。

 手が震える!これを止めなければ名前を書くエンピツの先見る、震え止まっている『よしいける』さっき読んだ所が出ている半分終わったが漢字がわからない!さぁ困った!

誰かが「かなでも良いですか」「よいです」救われた全部解答よし受かる。 

 自身持って家に帰り「全部やった合格だ」「発表もないのに」と家内笑う。

  この会社に骨を埋めようと働いて組合活動の役員までやっている。

ボ-ナス闘争最中、合格の知らせ・・・現金なものボナス闘争!最中、今辞めたら損、ボ-ナス貰ってからやめよう準備もある2ヶ月後辞める。

   

  個人タクシ-の営業
初日・個人タクシーの心構え、お客さんとのトラブル、親切丁寧の接客、心に決める。

売上は自分のもの仕事終わって、売上勘定して、妻は記帳、洗車、専従者給料、私は社長、車長これで良い。日本は高度成長、金回りは良いタクシ-も忙しくなる。
 

 二年半過ぎる、個人タクシーグル-プに入り、大手観光会社の観光グル-プ・仕事内容は、新婚旅、定年退職の旅行、家族旅行等のタクシ-旅行、この仕事は私に合った仕事だった。

20年も続き私の人生を変えさせた、お金に余裕をもたせてくれた。

 グル-プ仲間の旅行3年に一回、いろいろな所、日本中廻った。はじめは私一人で行っていたが、妻も連れて行く、個人タクシ-営業は最高な人生の一齣だった。


                 『お客様を乗せて・法人タクシ-時代』

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