No.399

 

令和4年7月5日(火)雨

 

 

 

 

 

7月に入り

 

今年も半分過ぎました。

 

早いなぁー!(^^)

 

 

台風の影響で

 

今日も雨模様です。

 

 

7月最初のブログは

 

久しぶりの論語です。(^^)

 

 

 

論語の師・名古屋のSさんから

 

論語を学んでいますが

 

ひとつの章句に対して

 

約50の論語の本から

 

それぞれの解釈文を並行して

 

解説していただいています。(^^)

 

 

”先進第十一”より

 

 

 

 

 

 

 

南容、三復白圭、孔子以其兄之子妻之。

 

 

 

南容、白圭を三復す。

 

孔子、其の兄の子を以って之に妻す。

 

 

 

南容は、白圭の詩を

 

何度もくりかえし口ずさんでいた。

 

先師は兄の娘をめあらせた。

 

 

 

この章句だけ読むと

 

意味がよく分かりませんが

 

多くの解説本の中から名古屋のSさんに

 

解説して頂きますので

 

解釈が拡がり

 

学びが得られます。(^^)

 

 

 

私が理解しやすかった解説が

 

 

吉田賢抗先生

 

『新釈漢文大系 論語』より

 

 

南容は『詩経』「大雅」の「抑」の篇の

 

 

白圭の玷(か)けたるは、なお磨く可し、

 

斯の言の玷けたるは、為(おさ)む可からず

 

 

(白圭の美玉は、もし欠けたとしても、

 

これを磨いてもと通りにすることが出来るが、

 

人の言葉の過ちは、

 

一度口から出してしまえば、とりかえせない

 

という句を、何度も口ずさんでいた。

 

孔子はかように言葉を慎む人物なら

 

大丈夫とほれこんで、

 

自分の兄の娘を嫁にやった。

 

 

 

そして渋沢栄一先生

 

『論語講義』より

 

 

孔門の南容は毎日白圭の詩を

 

幾度も反覆して誦したり、

 

南容は非常に謹厳な人であるから、

 

言語を慎み、失言なきを期するがために、

 

毎日白圭の詩を再三復誦していた。

 

孔子これを聞いて、その人となりを愛し、

 

兄の女を以て南容に妻わせたというのが

 

本章の趣意である。

 

言を慎み言責を重んずるは、

 

昔の君、今の紳士淑女の道である。

 

しかるに今の世の人は自己の言語について

 

ははなはだ不謹慎であるように思われる。

 

 

渋沢さんは約100年前に

 

今の世の人の言語は甚だ不謹慎と

 

おっしゃっています。(^^)

 

 

2022年の現在をご覧になったら

 

何とおっしゃるでしょうか? (ー_ー)

 

 

 

論語の師・名古屋のSさんは

 

『営業の魔法』の著者

 

中村信二さんの言葉を

 

解説してくださいました。

 

 

「言葉は釘と同じだ。

 

一度刺さった釘は、

 

抜いても釘穴が残る。

 

それと同じように

 

言葉も一度発してしまえば、

 

仮に撤回したとしても、

 

相手の心に傷として残るのだ」

 

と言っています。

 

やはり、言葉は発する前に、

 

細心の注意を払うべきなのでしょう。

 

 

 

以前にそのことに関して

 

書いた記事がありますので

 

又、ご覧頂けたら幸いです。m(_ _)m

 

 

No.148 『釘と一緒』

 

 

 

過去を振り返ると

 

相手の心に釘穴を残して

 

傷つけたことが多々あります。

 

 

 

言葉を発する前に

 

細心の注意を払わないとダメですね。

 

もっと精進します。(ー_ー)

 

 

 

いつも貴重な学びを与えてくださる

 

名古屋のSさんに

 

心より感謝いたします。m(_ _)m

 

 

 

 

いつも長原整骨院のブログを

 

ご覧いただきまして

 

ありがとうございます。m(__)m