本部御殿手には「武術は家庭あってこそであり、家庭をうち捨ててやってはいけない。」
という教えがあるが、これはとても重要なことだと思っている。
家族や家庭というものは人生の基盤であり愛する人々と自分が安心できる場所だ。
そして、「家族」は大切であるがゆえに、あるときには煩悩の大きな歯止めとなる存在だ。
これは武術の鍛錬を行う上で武を行使することの歯止めとなるということも意味していると思う。
武術は元々が相手を殺傷するためにはどうするべきか、ということの上に成り立っている。
それは綺麗ごとではない事実である。
そしてそれを考えた時「自己」のコントロールが出来るか?、ということは重要なことだと言える。
現実に武を行使すれば、どのようなことになるか世の中の様々な事件を見ていると
行使した後に対する想像力が欠けていることが分かる。
それは「怒り」が想像力を発生させないほど自己の中に渦巻くから、そうなるのだろうが
家族の存在をその時思いだせれば、そう簡単に武の使用などは出来ないはずだ。
行使すれば家族に大きな迷惑がかかることが容易に想像できるし家族と怒りなどを
天秤にかけた時に自己の怒りが家族より重いはずはないことに気づくからである。
家庭は自己の拠り所であり安心できるところ・楽・幸福を感じる処ゆえに
それにひびが入ったり迷惑をかけたり悲しませたり失うようなことは簡単には出来ないのである。
その反対に「縁るべ無きもの」大切な家族や人がいない人というのは歯止めが無いようなもので
自己コントロールがし難く=武の行使が行いやすくなる、ということになり易くなるとも言える。
また、家族や家庭があっても「我」が強く、自己が優先する人も武の行使のハードルは低くなる。
武道を教えることは教える相手が自己コントロールできる人かどうか見極めることが必要だと思う。
しかし、上達するにつれて(俺は、これができる。)という気持ちになって
必要以上に技をかける者も出てくる。
この「顕示欲」は強く戒める必要がある。
上原先生もそう云う考えを持っていて顕示欲が出てきている者は注意深く見て数回後には
「お前は、もう来るな!」 と叱責して門を閉じられていた。
お互い門弟同士は武を学ぶために道場へ来ているのだ。
相手を尊重できなかったり怪我寸前まで技をかけたりしてはいけないのは当たり前である。
闘う練習の時は力一杯やるが相手を怪我させるほどやってはいけないという
冷静さと自己コントロールが要求されるのだ。
だから本部御殿手には次のような教えと戒めがあるのである。
武術は自分と自分の家庭を守るために行使するが、その時は墓穴が二つあるものと思いなさい。
墓穴の一つは相手が入り、もう一つは自分が入るものだ。
先日、 「大人しそうな人が意外にも闘争的だ。」と書いたけれど彼等には大切にする家庭があり
家族仲も良いみたいなので安心して教えられる人達なのである。