週末 叔母の四十九日法要がありました
膵臓がんが見つかり無治療を選択した叔母
子供もおらず、叔父は早くに亡くなっていたので
治療より好きなことをして命を全うし、叔父のところに行きたいの、と言っていました
叔母のがんが見つかったのは夏の終わり
無治療緩和ケアだけでしたが痛み止めを服用しながら、旅行にヨガに、、と楽しいことをたくさん満喫していましたがまさかの脳梗塞
その後一ヶ月弱で天国に行ってしまいました。
でも叔母はきっと幸せです 大好きだった叔父にようやく天国で会えて、今ごろデート中かな?
叔母の苦しい姿をほとんど見ることもなく、今も元気な姿を思い出しています
ところでその四十九日法要の時
お寺の住職から話がありました
親鸞聖人の教えを世に広めるため、蓮如上人が書いた手紙の一節 白骨の章 を例に出して
語ってくれました
"人間の一生とは水に浮かんだ根無草のようなものこの世は全て無常であり、人間の一生はあっという間に過ぎていく
人間は必ず死ぬ それなのに今日明日には死なないだろうと毎日思って過ごす しかし朝行ってきますと出かけた者が夜には変わり果てた姿になってしまうこともある 生まれたばかりの赤ちゃんから老人まで、死が訪れるという未来は等しく決まっているのに 近年の大災害を思い出してみてもその通りだと言わざるを得ない
この手紙が書かれた550年前の平均寿命は40歳
30代に入るともう死後のことを考え始めていたとか
『生まれた者は必ず死んでいかねばならない』
亡くなった方の人生が儚かったように私達の人生もまた儚い その事に気付かされ意味を見出した時、亡くなった方の死は決して無駄にはならない"
胸に響くとはこういうことか、と
漠然としていた『死』というものが
実は私の未来、明日かもしれない未来に
いるんだよなぁと
がん治療している父と同様、私にも等しく与えられているわけだ、としみじみ
500年前なら私はもう年齢的にとっくに寿命を迎えているでしょう
私は今この時間を与えられていることが奇跡でラッキーだということに、この日ちゃんと気付かされました 叔母のおかげです