「今朝は、よく冷えるなあ」
ゆらり、と煙管の煙が立ち上る。まっすぐと上がったそれは天井に届く前に消えてしまった
「こう寒くては、手がかじかんでしまう」
冬の朝は頭がすっきりするが、それもゆきすぎると執筆には向かなくなるようだ、と鴎外は万年筆をことりと置いた
その瞬間である
ドスンッ
屋敷の床が抜けるのではないかと心配になるほどの物音がした。身を寄せ合うようにして庭の梢に止まっていた鳥たちが、その音に驚いたかのように飛び立ってしまった
「今の音はいったい?どうやら、隣の隣の部屋から聞こえたようだが」
鴎外の隣の隣の部屋は、すなわち芽衣の部屋である
「子リスちゃん?いるのかい?」
いきなり部屋に入るのは紳士としてまずかろう、と扉をノックしてから部屋の扉を開けた。ベッドの上には誰もおらず、ベッドの向こう側から芽衣がひょっこり顔を出している
「お、おおおお鴎外さん!?」
「いかにも僕だが。さっきすさまじい音がしたが、もしや何かあったのかい?」
「う、え、えーーーと……………
そう!そうなんです!ベッドから落ちちゃって。お騒がせしてすみません」
「怪我などはしていないかい?もしどこか悪いところがあれば今すぐ診てやるが‥」
「いえ!頑丈なのが私の取り柄なので!本当に大丈夫です!!」
「そうかい。後から痛むようだったら遠慮せずにすぐに僕に言うように」
「はい」
芽衣から素直な返事が返ってきたことで、鴎外は芽衣の自分の部屋に戻ることにした
しかし、その前にその隣の部屋の扉をちらりと見る。その部屋からは物音一つしない
(あれほどの音がしても出てこないとは…
子リスちゃんと共にいるのだろうな)
鴎外と言葉を交わす間も、芽衣はちらちらと視線を下に向けていた。おそらくそこにいたのだろう
もう1人の居候の顔を思い浮かべながら、今度こそ鴎外はその場をあとにした
ぱたぱたと鴎外さんが離れる音がして、床に座り込んでいた私はふうーっと息を吐いた
「何とかうまくいった………」
鴎外さんを追い返すことは成功した。しかし、深刻な問題がまだ残っている。私は自分の傍らにある布団の山を改めて見下ろした
「あのー…………大丈夫ですか?」
私が声をかけると、山はもぞもぞと動き中から(鴎外さんが言うところの)もう1人の居候が顔を出した。私を睨みつけている 瞳にはあらゆる呪詛が籠もっているが 、同時に涙も滲んでいる
「大丈夫な訳ないだろ。俺は君みたいに石頭じゃないんだから」
不機嫌オーラがだだ漏れの春草さんはいつもより言葉がキツい。氷柱を投げられている気分だ
「う……………いや、でもあれは………」
私が悪いとも言えるし、春草さんが悪いとも言える
けれども、はっきりと言える事実はただ一つ
盛大な音を立ててベッドから落ちたのは、私ではなく春草さんだったということだ
~・~・~・~・~・~
春草さんは冬が嫌いである。大嫌いである。何故なら「寒いから」
昨日の晩は特に寒かった。こんな日はさっさと寝てしまおうと思い、布団に入ろうとした私だったが、ちょうどその時、春草さんがやってきた
「どうしましたか?」
私の問いかけに答えることなく、彼は私の手を取ると部屋に入ってきた。そのままベッドまで進むと私をベッドに引きずり込み抱きしめた
「おやすみ」
そう言うが早いが、目を閉じてしまった彼に、私の頭はパニックである
「え?春草さん?これどういう事ですか?」
距離をとろうともがく私に春草さんは煩わしそうに目を開けた
「寒いから」
「寒いから、何ですか?」
「分からない?暖めてって言ってるの」
良いから大人しくしなよ、と言われてますます強く抱きしめられる。足を絡められて、本当に身動きがとれない
「暖かい……」
春草さんはほっとした声を出すが、私は落ち着かない。もぞもぞと動いていた私だったが、彼におやすみのキスをされて体温が急上昇したのは言うまでもなかった
(まあ、一緒に眠るだけなら私も暖かいし良いよね)
と自分も春草さんにぎゅっとしがみつきながら眠った私は、今朝その判断を後悔することになる
「春草さんっ!いい加減、離れて下さいっ!」
「やだ。寒い」
まるでコアラの赤ちゃんのように私にぎゅっとしがみつく彼は、朝になっても離れようとしなかった
「学校に遅刻しますよ!」
「今日、休み……………」
どうやら休みなのを良いことにずっとこのまま私にくっついているつもりらしい
「休みの日だからって、寝坊して良いはずないじゃないですか!?」
「起きてる……………」
目を閉じたまま言われても、全く説得力がない。そもそも、私が寝坊したときは「居候のくせに図々しい」だとか、「だらしない」だとか言うくせに、不公平だ
「私にくっついている間は起きているとは言いません!」
「んん……………」
(も~~~~!!!!)
いったん休憩、と腕の力を抜くと彼は嬉しそうにすり寄ってきた
(暑い…………)
とにかく暑い。どうして真冬なのに私は汗を大量にかいているのだろう。対して春草さんは暖かそうだ。普段だったらその幸せそうな寝顔をずっと見ていたいと思うのだけど、今日はそう言うわけにはいかない。彼の思うがままにさせていたら、私は一日中ベッドから出れなくなるだろう
(こうなったら………)
やむを得ない。少々手荒な真似になるが、春草さんには何としても離れてもらう
私はそっと眠っている彼の体に手を伸ばした
(この辺り、かな?)
両手が目当ての場所に達したとき、私は一気に仕掛けた
「ふぎゃっ!?」
パチッと目を開けるとまるで尻尾を踏まれた猫のような声を出して、春草さんは私から離れた
ここまでは良かったのだ。私のシナリオ通りだった
しかし、大して広くもないベッドの上を転がった春草さんは…
「うぐっ!!!」
布団を巻き込んでベッドから落ちてしまった
~・~・~・~・~・~
「君さ、俺に恨みでもあるわけ」
「恨みがあるわけでは…」
春草さんに対してはどちらかと言えばこのまま冬眠してしまうんじゃないかという危機感を持っていた
「へえ。恨みもないのにあんなことするんだ」
あんなこと、とはさっき私が仕掛けた反撃のことだろう
反撃とは言ってもそんな大それたものではなく、ただ脇腹をくすぐっただけなのだが、まさかあんな大惨事に発展しようとは思わなかった
「すみません。まさか、春草さんの弱点だったなんて知らなくて」
「うるさい」
私の語尾に被せるようにして怒りの声が飛んできた。本当に弱点らしい
だとしても「ふぎゃっ!?」はないだろう。いったいどこからあんな声が出てくるのか。普段の春草さんとのギャップがありすぎて、可愛いとすら感じてしまう
「何、そのにやけ顔」
「え、い、いえ。何でも………………」
思っていたことが顔に出ていたらしい。不機嫌極まりない声で尋ねられる。まさか、
『もう一回くすぐってみたいです』
とは言えず黙ったままでいると、春草さんが私に抱きついた。体重をかけられ、気がついたら背中には床が当たっていた
「寝る」
大きなあくびをこぼした彼はそう言って目を閉じてしまった
「え!?寝るってここでですか?ここ、床の上ですよ!風邪引きますよ!?」
「君がいれば寒くない」
春草さんは私と布団に挟まれているから暖かいだろうけど、床と春草さんに挟まれている私は背中から冷気を感じる
「私が風邪を引いてしまいます!」
「大丈夫。君って頑丈だから」
「いくら頑丈でもさすがに寒いですって!離れて下さいっ!」
「じゃあ……」
私の胸の上に頭を載せていた春草さんが少し顔を上げた。寝ぼけ眼で私の首元へと顔を寄せる
熱い吐息がかかったそこに、甘い痛みが広がった
「っ!!」
何をされたのかを自覚すると、体温が一気に上昇していった。朱が広がっていく私の頬に手を当てた春草さんが満足げに微笑む
「ほら、熱い………もう寒くないだろ」
「だ、としても駄目です!!離れて下さいっ!
じゃないと、またくすぐりますよ!」
脅し文句を言ってみると、春草さんの目が据わった
「ふうん………やれるものならやってみれば
ただし、それ相応の覚悟はしときなよ」
「ごめんなさい!もうしません!!」
春草さんのお仕置きはできることなら受けたくない
薄い笑みを浮かべる彼の方が、1枚も2枚も上手だった
「朝ご飯の時間には起きるから」と言っていた彼だったが、その時間になっても「寒い」と言って離れようとしなかった。私のお腹が鳴ったときですら、「その腹の虫、黙らせてくれる」と理不尽なお説教を食らってしまった
結局、鴎外さんに救出されるまで彼に組み敷かれていた私は、この先こういうことが度々起ころうとは思っていなかった