風呂上がりの髪をしっかりと乾かしてから、洗面所を出た私は、まだ住み始めて一週間ほどしか経っていない家の廊下を歩いた
居間と寝室の他には部屋が2つほどしかない小さな家だけど、2人で住むにはそれだけで十分だ
もちろん、家の中で迷子になるはずもなく、私は何事もなく寝室の前に到着した
この襖の向こうに春草さんが-旦那様がいると思うと、緊張する。恋人同士だった頃も彼の部屋に押し掛けたりしていたけれど、今日は初めて彼の部屋に入ったときよりも緊張する
理由は、ただ1つ
今日私たちは初めて枕を交わすから
未成年で結婚するとは1年前の私なら思っていなかったし、まして純情なおつきあいのまま結婚までたどり着くとは思っていなかった
しかしここは私がかつていた現代よりも100年ほど前の日本。つまりは明治時代であり、いろいろ常識が違う
その最たるものが男女交際だった。堅すぎるんじゃないか、って思うくらい情操観念がしっかりしていた
人前では、手をつながないどころの話じゃなかった。隣で並んで歩くのすら駄目なのだ。それを知ったとき、現代生まれ現代育ちの私は「別に良いじゃん」と思ったのだが、明治生まれ明治育ちの彼は、頑なにそれを守った
まあ、恋人同士になってからは人目が少ないところでなら手をつないでいたけれど
家の中なら、普通に同棲するカップルみたいな雰囲気だったけど。それでも、彼は口づけ以上のことをしなかった。その素振りすら見せなかった
婚約して、「一緒に寝たい」と言われて同じ布団に入っても、おやすみのキスを交わすと何も起こらないまま朝になった
その理由を辿ると結局、『ここが明治だから』という個人の力ではどうしようもない不文律があるのだから何とも言えないが
それで、である。今日私は晴れて春草さんと祝言をあげた。白無垢に身を包み、三三九度のお酒をちびりちびりと飲んだ
つまり、夫婦になったわけだ。今日が夫婦になって初めての夜である
『結納が終わったら、たっぷり可愛がってあげるから』
プロポーズされた日の夜、春草さんはそう言った。つまりは、今夜がその時なのだ
春草さんに出会う前の記憶がすっぽり抜け落ちている私だけど、これだけは断言できる
-私は、今まで男性とおつきあいをしたことがない
なんと悲しいことか
もともと男子と活発に話すタイプでもなかったから。おそらく告白されたことすら無かったと思う
だけど、そういうことに関する知識だけはかすかに残っている。大方、友人の誰かから聞いたり、雑誌で読んだりして得たものだろう
『初めて』は痛いらしい。そう聞くと、ほんの少し怖い。「怖いです」って素直に白状したら、優しい彼はしないのだろう。でも優しさに甘えていたら、彼に我慢を強いるというわけで‥…‥下手をすれば何事もないまま年を重ねていくわけで‥…‥それは嫌だ
結局、いつかしなくちゃならないのなら、早くしてしまえという話なのだ
バンジージャンプにチャレンジするときだって飛んでしまえば何とかなるのと同じなのだ
「よし!」
私、綾月芽衣は今からバンジージャンプに挑戦します!
スパンッと襖を開けたその先、春草さんは縁側に座っていた。私の方を振り返って珍獣を見たような顔をする
「…‥…何、鼻息荒くして。今から狩りにでも行くつもり?行くなら君1人で行きなよ」
「行きません」
「そうだね。君が行ったらむしろ猪だと間違われて狩られるに決まってる」
「行きませんったら!」
早速飛んできたのは意地悪。この人は毎日私に意地悪を言わないと気が済まないのだろうか。結納の間は大人しくしていないといけなかったから、ずっと言いたくて言いたくてたまらなかったのだろう。頬を膨らませる私の顔を見るその顔がキラキラしていたのだが、見なかった振りをする
襖を閉めて春草さんの傍に寄ると、縁側からは満月がよく見えた
「綺麗…‥…」
春草さんの隣に座って月を見上げる
雲に遮られることもなく、真っ暗な空に浮く月はいつも見る月よりも大きく感じた。優しい金色の光を見ると心が穏やかになる
「君と初めて会った日も満月だったね。あの時は赤かったけど」
満月を見る度に思い出すのは、私が明治時代に飛ばされた日。春草さんと初めて会った日。そしてその1ヶ月後-春草さんと共に明治の世で生きていくと決めた日
「はい。あの時、春草さんのこと怖い人だと思っていました」
「そうかな?君に怖い話をしたぐらいだけど」
「会ったばかりの人に怪談を聞かせるなんて十分怖い人です」
おまけにあの時はここが明治だとなかなか認められなくて、自分の記憶が無くなっていることが不安でたまらなかったというのに。まあこれらは全て私個人の事情だから、彼は知らない
「次の日からは、怖い人って言うより意地悪な人って思うようになりました」
「やかましいのは苦手だから。鴎外さんもこんな変な子を拾ってきて、いったいどうするのかと思ってた」
図々しい、と言われ続け、いつしかそれが私の代名詞になってしまったのは、甚だ不本意である。告白の時ですら、図々しいと言われた気がする
「でも、春草さんのこと、次第に優しい人だって分かってきて、いつしか好きになっていました」
春草さんは優しい。優しすぎるくらいに
我が儘を言っても何だかんだ言いつつ聞いてくれる。厳しいことを言ってもそれは私のためを思ってのことだったりする
甘やかすだけじゃないのが本当の優しさだ
春草さんは軽く相づちを返すとまた月を見上げた
「あらたまの 月立つまでに 来まさねば
夢にし見つつ 思ひぞ我がせし」
唐突に彼の口から流れ出たのは古風な言葉
「和歌、ですか?」
「俺が作ったんじゃないけどね。ずっと昔に生きた人が詠んだ歌」
そう言われると、春草さんが今目の前にいることが奇跡のように感じる。100年は近いようで遠い。きっと現代にいたら会えなかったかもしれない人だ
「へえ、どんな意味ですか?」
「君は長風呂だね、いつまで俺を待たせるのかな」
「嘘ですよね。『風呂』って言葉は和歌にありませんでしたよ」
「もちろん、嘘だよ」
しれっと返すさまは見事としか言いようがない
「『月が変わっても君は来てくれないから、夢の中で君を探してた』だったかな、確か」
「何だか切ないですね」
「現に君は来なかったけど?寝室の前でいったい何を躊躇っていたんだか」
春草さんには全てバレていたらしい。きっと私の胸の内の葛藤も気づいているのだろう
「本当は怖いんだろ?無理しなくて良いから」
私が何か言う前に全部言ってしまった。そういう優しさが、ときどき苦しい
「今日はもう寝ようか。君も疲れているだろうし」
立ち上がろうとした彼だけど立ち上がれなかった。私が彼の膝の上に乗ったから
「確かに、怖いです。でも、私は、」
彼の寝間着を握りしめる手は震えていた。緊張のせいか怖いせいか‥…どっちもだろう。かっこ悪いなあ、と思いつつ顔を上げる
「春草さんに、今日、抱いて欲しいんです」
「芽衣…‥…」
「春草さんも言ってたじゃないですか。結納が終わったんだから、いっぱい可愛がってください」
強ばっている顔の筋肉を何とか動かして、今できる精一杯の可愛い顔を作った
「泣いても止めないよ?それでも、いい?」
くどいくらいに釘を差してくる彼に、頷いて口づけをする
「早く、私を春草さんのものにしてください」
彼の髪紐をほどきながらそう言うと、
「いったいどこでそんな殺し文句覚えてきたんだか」
と困ったような顔で笑われた
芽衣の意識が途切れたのを見て、俺は重ねていた唇を離した
芽衣の顔には瞳から頬にかけていくつもの涙が通った跡が残っている。本当はすごく怖かっただろうに
それに、最初はすごくつらそうな顔をしていた
「まあ、最後は気持ちよさそうだったけど?」
彼女が聞いたら真っ赤な顔をして怒るだろう。すやすやと俺に抱かれて眠る彼女の肌にはいくつもの花が散っている
逃げ出さなかったのは肝が据わっているのか、単純に先のことを見ていないのか、よく分からない
本人に聞いたら恥ずかしそうな顔で、そのくせ俺には想像もつかないような恥ずかしいことを言ってくれるのだ
芽衣と出会ってから、特に恋仲になってから、何度俺の心臓が止まりかけたことか。彼女は知らない
「意地悪なのはどっちだよ」
自覚のない彼女の方がよっぽど質が悪い。何だかんだ言いつつ最後は彼女の言うことに従っている自分。いつの間にか彼女の尻に敷かれていそうで、少し笑える
「しゅんそうさん…‥…」
「ん?何」
「すき、…‥…‥…いちばん、すき」
彼女は知らない。毎晩寝言で俺に愛を囁くことを
一度、蓄音機に録音して彼女に聞かせようかと考えたこともあったが、そんなことをしたら二度と言ってくれなさそうなのでやめた
「ありがとう。俺も芽衣が一番好きだよ」
彼女は知らない。お返しに口づけると、本当に嬉しそうな顔をすることを
今日は特に嬉しそうだ。さっきまで何度もしたというのに
「間抜けな顔」
せめて口を閉じなよ、なんて忠告は聞こえるはずもない。彼女の眠りの深さと寝相の悪さは結婚前に十分すぎるほど知った
蹴られないように足は絡めるべし、だとか、ベッドの上から落とされないように首にしがみつくべし、だとか。自分の身を守るための術をいろいろ学んだ
「それなのに、朝起きると『春草さん近すぎます!』なんて言って怒るんだから…‥」
世の中は不公平だ、いろいろな面で
芽衣の一挙手一投足にどんどん惚れていくのが俺だけな気がしてならない
これも彼女に聞いたら別の答えが返ってくるのだろうが…‥…
「やっぱり不公平だ」
愛の深さを測れるとしたら、間違いなく俺の勝ちだ
こんな変な寝顔ですら可愛いと思ってしまうのだから
満月が照らす彼女の寝顔があまりにも可愛くて、頬を撫でるとくすぐったそうに笑った
「
新玉とは掘り出されたままで、まだ磨かれていない玉のことを言う。それを磨くのは他の誰でもなくこの自分だ
「見てなよ。君をもっと綺麗にしてみせるから」
月は満ち欠けとともに姿を変えてしまうけど
君は永遠に輝き続ける俺だけの満月であって欲しい
「だから、君はもっと俺を好きになればいい」
俺が君を想う気持ちに君が俺を想う気持ちが追いつくまで、いつまでも、何度でも、可愛がってあげる
もっとも、俺は君よりも一歩先を行くから一生終わらないと思うけど
「ふ、面白いかも」
俺は芽衣に振り回されて、芽衣は俺に振り回される
俺はすべて分かっていて、芽衣は何も分かっていない
そんな摩訶不思議な関係は、不思議な縁で結ばれた俺たちにぴったりではないか
俺だけが知る密かな計画。うん、面白い
「春草さんは、意地悪です」
ぶつぶつ文句を言う彼女の顔が想像できて、実に愉快だ。それでも俺について来てくれるのだから、とても愛しい
「君も、大変な男と結婚したね」
もう逃がしてあげないよ
愛してる、俺だけの可愛いお嫁さん