ごめん。ありがとう
それが最期の言葉だった
「お誕生日おめでとうございます、春草さん」
祝いの言葉を述べた私に答える声はない
あの人がもう長くないのは知っていた。覚悟もできていた、そのつもりだった
だけどあと1年なんて贅沢は言わないから。1ヶ月、いや、せめて一週間だけでも良かった。一緒にいられたら、今日を
-春草さんのお誕生日を一緒に祝えたのに
「あと、5日だったのに……」
神様はなんて残酷なんだろう
また目の前が滲み始めたことに気づき、目元を拭う
私が泣いていると優しく抱きしめて涙を拭ってくれた温かい手は、もうここにはないから
だから、しっかりしなきゃ。1人でも大丈夫なように…
「どうして泣いているの」
「__!!」
鈴が鳴るような声が聞こえ、涙を拭いきって縁側に出ると、赤い着物姿の庭に立っている女の子を見つけた
夜の闇に融けてしまいそうな漆黒の髪。対照的に肌は透き通るほど白く、妖しく光る金色の瞳で私を見つめていた
当然のことながら私はこの女の子のことを知らない。もしかして迷子だろうか
「あ、あの……」
「私が何者かなんてどうでもいいわ」
少女にしてはあまりにも大人びている口調に呆然としている私をよそに、女の子はゆったりとした足取りでこちらに近づくと縁側に腰掛けた
「それで?あなたは何を悲しんでいるの?」
「そ、それは……」
どう説明したらよいものか、と考えている時点で、私は見ず知らずの彼女のペースに飲まれているのだろう
「誰か大切な人を喪ったの?」
「………っ!!」
私を見上げる彼女の瞳は悲痛な面もちで立ちすくむ私を映していた。私が動けないでいると、そっと彼女の方が視線を逸らしうつむいた
「私も大切な人を亡くしたの」
「え…?」
「……私の生みの親といってもいいわ。まさか、こんなに早く別れが訪れるなんて思っていなかったの」
顔を上げた女の子は私に隣に座るよう促した
「私を見つめるあの人の眼差しはとても綺麗だったの。真剣そのもので、とても深い愛情を感じて。私の1番大切な人………でも、」
女の子は寂しそうに微笑みながら続けた
「私にとってはそうでも、あの人にとってみれば私は大勢いる中の1人に過ぎなかったわ。それでも皆に平等に愛情をかけてくれてたけど、あの人が本当に大切に思ってたのは別の人よ」
「そう、なんだ…」
事情はよくわからないけど、この子にとってその人は心の支えのようなものだったんだろう
-ちょうど私にとっての春草さんのような存在
きゅうっと胸が締め付けられるような気がした
「私の話なんかよりあなたの話が聞きたいわ。あなたの大切な人はどんな人だったの?」
「私の大切な人…」
私の大切な人は、
「意地悪で、」
私の大切な春草さんは、
「でもとても優しい人。普段は素っ気ないのに、本当は私のことをいつも見てくれていて、私が困ったときには助けてくれる」
最期の時まで私のことを気にかけてくれた。『ごめん』って何度も謝って、それ以上に『ずっと君のことを愛してる』って言ってくれた
「それにすごく絵が上手なの」
春草さんと同じくらい彼の絵が好きだった。真っ白な世界に色がついて命が吹き込まれていく様子を隣で眺めるのはとても幸せなひとときだった
「その人のこと、今でも大切に思っているのね」
女の子の優しい言葉に素直に頷けた
「うん。私、ずっとずっと春草さんのことが好き……大好き」
こらえきれなくなった大粒の涙が1つ、2つと私の頬を伝ってこぼれ落ちてゆく。女の子が黙って差し出してくれた手拭いを受け取り涙を拭う。ようやく涙も収まってきたところ、女の子がぽつりと呟いた
「羨ましい」
「え?」
「人間って死んだらそれで終わりだと思っていたけど、まだ想ってくれる人がいるなんて‥」
「あなただって大切な人のことを想っているじゃない…それにあなただってもし、」
「さあね。仮に私がいなくなったとしても誰も悲しんでなんかくれないわ
ああ、困る人間はいるかもしれないけど」
皮肉気に唇の端を歪めた女の子は「でも、」と私の方を向いて言った
「あなただったら私のことを想ってくれるのかしら
--私のことが視えるあなたなら」
金色の瞳を三日月のように細め、妖艶な笑みを浮かべる目の前の女の子に、少し違和感を感じた
「それってどういう…」
私の問いかけに答えることなく、女の子はするりと立ち上がった
「1ついいこと教えてあげるわ。私の大切な人の名前は---
---菱田春草」
「え!?」
私が目を丸くするのと同時に強い風が吹き、思わず目をつぶった
次に目を開けたとき、女の子の姿はなく、代わりに黒猫が金の瞳で私を見上げていた。黒猫は「にゃあ」と一声鳴くとどこかへ行ってしまった
「あの猫…どこかで……」
見覚えのある猫だったなぁと不思議な気持ちのまま女の子がくれた手拭いをよく見ると、何か紙が挟まっていた。二つ折りにされたそれを開くと‥
「手紙?」
手紙は見慣れた字で『芽衣へ』と始まっていた
『芽衣へ
君がこの手紙を見つけたということは俺はもうこの世にいないんだね
傍にいることができなくて、本当にごめん
もしかしたら君は俺のことを恨んでいるのかもしれない
俺なんかじゃなくて、鴎外さんと一緒になった方が良かったのかもしれない
でも俺は君じゃなきゃ駄目だった
どうしてかは分からないけれど、気がついたら君のことをずっと見ていた
君に触れられたら、なんて自分らしくないことを考えてた
君が俺の気持ちに応えてくれて、本当に嬉しかった
君が俺と夫婦になってくれて、いつも傍にいてくれて、とても幸せだった
ねえ、もしも君が俺のことを許してくれるなら1つだけわがままを聞いて
君には長生きしてほしい
いつかお婆ちゃんになった君を迎えにいくから
その時には、君が見たもの、聞いたもの、感じたものをたくさん俺に教えてほしい
俺が迎えに行く前にこっちに来たら許さないからね
だから、君にはそっちで図々しく、ずっと笑っていてほしい
君と過ごせた時間はあまりにも短かったけれど、それでも俺にとっては一瞬一瞬がかけがえのないものだった
君には苦労も迷惑もたくさんかけた
君を幸せにはできなかったかもしれない
でも俺はすごく幸せだった
君に出会えてよかった
俺と一緒になってくれてありがとう
愛してる
春草』
「春草、さん」
私だってあなたと出会えて、傍に居ることができて、とても幸せでした。あなたにたくさん幸せを分けてもらいました。私もあなたのことを愛しています
胸の奥から春草さんに言いたいことがいっぱい沸き上がるのに、口から出てくるのは嗚咽ばかり。滲む視界の中、『愛してる』の4文字を指でそっとなぞれば、心の中に暖かい気持ちが広がった
「春草さん、私、」
私、ちゃんと長生きしますから。ヨボヨボのお婆ちゃんになって、『いつまで待たせるつもり』って春草さんに呆れられるくらい、精一杯生きますから。お話だっていくらでもできるくらい、いろんな経験をしますから。あなたが見れなかった分の景色まで見に行きますから
だから、次に会う時には、長生きした私を褒めてください。『芽衣』って名前を呼んでください。 ぎゅって抱きしめてください
まだまだわがままをいっぱい言いたいけれど、
これだけは今日言わせてください
「お誕生日おめでとうございます、春草さん。ずっと大好きですよ」
きっと空から私を見ているだろう彼に届くように月を見上げて言えば、優しい風が頬をなでていった
「ありがとう」と彼が笑っている気がした
今日は大切な人の大切な日---