明治時代にとばされて、記憶を失った私が過ごす七夕には、いつも春草さんが隣にいた。彼がいない七夕を過ごすのは今日が初めてだ
何でもない日でも、彼との思い出は大切なものとして私の胸の中にしまってあるけれど。私にとって七夕は特に大事な思い出だ
『俺と結婚して』
そう言ってくれた彼の言葉も、交わした熱い口づけも、夜空から降り注ぎそうなほど輝く星の光も、夜の涼しい風も、サラサラと音を立てる笹の葉の音も。全部覚えてる
大事な思い出だからこそ、余計につらくなる
どうしてあの人は隣にいてくれないの、と
「母様、泣かないで」
縁側に座ってあの日と同じくらい輝く星空を眺めていると、気遣わしげな撫子の声が聞こえた
隣を見ると、不安そうな表情で私を見ていた。ぎゅっと私の手を握りしめてもう一度繰り返す
「泣かないで
今日が父様と母様にとって大事な日だって知ってるけど、母様が悲しい思いをするのも分かるけど。泣かないで
父様も泣いてしまうわ」
お願い、と懇願する撫子の方が泣いてしまいそうだ。私は深呼吸をして心を落ち着かせて撫子に笑顔を向けた
「泣かないよ。心配かけてごめんね」
私の笑顔の中につらそうな様子が無いのを確認して撫子はほっと息をついた
「じゃあ、短冊にお願い書こうか」
「ええ」
近所の人に分けてもらった小さな笹の葉。そこに短冊をくくりつけていく。風に遊ばれてひらひらと舞う短冊には2人で書いたお願いごと
その動きを目で追っている撫子に私は声をかけた
「撫子」
「なあに、母様?」
振り返った撫子の髪に私は花を挿した
不思議そうな顔をする撫子の前に同じ種類の花を差し出す
「これがナデシコの花。ちょうど咲き出した頃なの」
淡紅色の花を手渡すと撫子は興味深そうに眺めて、糸みたいに細くなっている花びらの先をちょんちょんとつつく
「可愛いわ」
自分と同じ名前を持つこの花を撫子は気に入ってくれたらしい
私はその様子に微笑んで庭に咲くナデシコを眺めた
『
この7つを“秋の七草”と呼ぶんだ』
いつかの七夕、春草さんが教えてくれた。今の私みたいにナデシコを眺めながら
『まあ、“春の七草”みたいに食べることはできないから、君は残念に思うかもしれないけど』
そう言って隣に座る私に笑いかけるあの頃の彼の目は、ぷっくりと頬を膨らませる私を映していた
『私はいつも食べ物の事ばかり考えてる訳じゃないですよ!』
頬を膨らませたまま言い返すと、彼からは意地悪が返ってきた
『へえ。じゃあ君は、どんなことを考えてるの』
答えてくれるまでこのままだよ、と悪戯っぽく言いながら私を抱きしめる彼の目は真剣だった
だから、私も自分の想いを正直に口に出した
『私が考えているのは、春草さんのことだけです。春草さんといられる今がとても幸せです
好きです。春草さんが大好きです』
いつになく
『……恥ずかしい奴』
『だって、春草さんが言えって言うから…私だって恥ずかしいんですよ』
熱い顔を隠そうと顔を下げようとした私だったが、そうするよりも先に春草さんが私に口づけた
ちゅっ、と小さな音を立てて顔を離した彼は嬉しそうにはにかんだ
『俺も。いつも君のことを想ってる
愛してるよ、芽衣』
私の大好きな笑顔で、彼はそう言ってくれたのだった
「‥…母様?」
撫子に不思議そうな顔で覗き込まれて我に返った私。ずいぶんと長い間思い出に浸っていたらしく、「大丈夫?」と尋ねられた
「大丈夫だよ。ごめん、ちょっと昔のこと思い出して」
「昔?それって父様の?」
「うん」
思い出の中の幸せな気分に浸りながら答えると撫子はくすくすと笑った
「母様、とても嬉しそうな顔してる。どんな思い出なのかしら?」
「えっ……それは、その、………」
娘の前で惚気話をしても良いものか、と迷ってしまう
「教えて。父様と母様の思い出が聞きたいの」
「じゃ、じゃあ。少しだけ、ね」
撫子に背中を押されて、春草さんとの思い出話を語り出した私。話し出すとあれもこれも、と次から次へと思い出がやってきて、少しのはずがたくさん話してしまった
中には私から見れば少し恥ずかしい話もあったのだが、それでも撫子はずっと楽しそうに聞いてくれた
7月は、文月とも言う
たとえ私の想いを手紙に綴っても、あの人に届くことはもう二度とないけれど
こうやって話していれば、もしかしたら彼にも聞こえているのかもしれない
私の話に相づちを打つように、流れ星が1つ2つと夜空を駆けて
ささやかな願いが風に揺られて音を立てる
『春草さんとずっと一緒にいられますように』
昔、2人で願った短冊のすぐ隣で、淡紅色のお願いごとも一緒に揺れた
『撫子とずっと笑っていられますように』