春の風は布団の中で眠る私の側を優しく流れていく。微睡みの中で心地よさを感じていた私は、不意に懐かしい匂いがして目を開けた
柔らかい光が部屋の中を包んでいる。匂いは庭先から流れてきているようで、ぼんやりとした意識の中ゆっくりと顔を庭の方に向けた
「!?」
開きっぱなしの障子にもたれながら庭を眺めている人がいる
その人は私に背を向けているから顔は分からない。でも、でも____
「‥…………………しゅ、」
深緑の羽織に、若草色の長い髪
もう何十年もその姿を見なかったけど、忘れた瞬間なんて一秒たりとも無かった
それなのに、気持ちだけが急いでしまって声が出ない
それでも私の声が届いたらしく、その人はゆっくりと振り向いてくれた
出会ったときの姿で、優しい視線を私に向けて言葉を紡いだ
「おはよう」
懐かしい声が空気を震わせる。その声が耳に届くといても立ってもいられなくなって、今度こそ彼を離したくなくて、私は布団を飛び出した
「春草さん!」
やっと触れることのできた彼の身体はとても暖かかった。そして私は、やっと彼が迎えに来てくれたんだと悟った
「春草さん!春草さん!春草さん!!」
力いっぱい抱きしめて、ひたすら彼の名前を呼んだ
「会いたかったです……」
その一言を最後に、それ以上の言葉が出てこなくて、子供みたいに声を上げて泣いた
そんな私を、彼も痛いくらいに強く抱きしめてくれた
「俺も会いたかった、芽衣………
ねえ、ちゃんと顔を見せて」
彼に請われるまま、顔を上げた。彼の澄んだ瞳に映る私も、彼と出会ったときの姿をしていた
「酷い顔になってるけど、やっぱり可愛い」
涙でグシャグシャになっている私の顔を見て春草さんが笑う。いつも一言多い彼の言い方が懐かしくて、また涙が溢れてくる
「相変わらず泣き虫だね、君は」
春草さんが目元に浮かんだ涙を拭ってくれるけど、それでも涙は止まらなかった。その様子を見て困ったような顔になる
「泣き顔より、笑った顔が見たいんだけど」
「だ、だって、笑えない……」
顔の筋肉はふるふると震えるだけで、まるで笑い方を忘れてしまったみたいだ。人って、本当に嬉しいときは笑えないんだと初めて知った
「何で。俺は、また君の笑顔が見られる日をずっと待ってたって言うのに」
「私だってずっと待ってたんですよ
何でもっと早く来てくれなかったんですか」
「俺が思ってたよりも君が図太かったからだよ。そんなに俺に会いたくないのかと不安になったぐらい」
「そんなわけないじゃないですか
春草さんが長生きして欲しいって言うから、私は精一杯生きたんです」
「うん、そうだね。それについては、ご褒美をあげる」
私の唇に彼のそれが重ねられた。何度も重ねられて深くなる口づけは、まるで今までできなかった分を埋め合わせるかのように熱かった
「春草さん」
「何」
「これからは、私とずっと一緒にいてください。どこにも行かないでください」
彼にすがりつく私は、きっとまだ不安なのだ。彼と離ればなれになってしまうのが、怖くてたまらない
「大丈夫。もう二度と、君を置いていったりしない。ずっと傍にいるって約束する」
「じゃあ、春草さんに話したいことがいっぱいあるんです。聞いてくれますか?」
「聞くよ。どんな些細な事でも」
春草さんに話したいことは数え切れないくらいたくさんある。良いことも、悪いこともいっぱいある
でも、一番話したいのは私たちの娘の話だ。私を孤独から救ってくれた優しいあの子の話がしたい
「そろそろいこうか」と差し出された手に私は自分の指を絡めた。今度こそ離したくなくて、少し力を込めるとそれに応えるかのように彼も強く握り返した
見上げると、春草さんと目があった。互いに微笑んで、寄り添いながら歩き出す
彼に手を引かれるまま、そっと後ろを振り返れば、撫子が持ってきてくれた桜の枝が私たちを見送っていた
私は心の中で桜に願った
どうか、あの子に伝えてほしい
「ありがとう、撫子」
ありがとう、本当に
あなたのおかげで、私は幸せだったよ