「わたし」が「わたし」たる所以は、わたしの唯一無二性のみにあるのではない。とはいえ、「わたし」は、いついかなるときにおいても、他の何者かに交換可能であるのでもない。
「わたし」がただただ唯一無二であるとすれば、わたしたちが他者の生を参照する、などということは不可能であるに違いない。「わたし」が絶えず交換可能であるとすれば、わたしたちは他者と自身をどのように区別できているというのだろうか。
この唯一無二性と交換可能性との間で揺れ動く存在、それが人間というものである。内なる静謐と、耐えざる動揺と、これらをあわせもつことを宿命づけられた存在がわたしたちであり、この宿命はわたしたちに云々できるものでもあるまい。
ついに乗り越えることはかなわず、わたしたちがその前に屈伏させられ、思考するものとして観念せざるをえないもの、それが存在の存在性であり、だからこそ、人間は存在の外側を夢想するのである。つまり、存在を超克しようとする存在、それこそが言葉を操る存在たる人間なのである。