長い間、人間というものをしているとたくさんの「イヤなこと」に出会う。昔は「イヤなこと」はすべて「嫌なこと」に思えたのだけど、やっと「イヤなこと」と思えるようになってきた気がする。ちなみに、「嫌なこと」というのは、それに近づくのすら億劫で、それを窺わせるちょっとした可能性があっても、近づくのを拒んでたものという意味合いだろうか。
「イヤなこと」というのは、それを窺わせるようなものが少なからずあったとしても、避けられないとするならば、それでも仕方ないかなあ・・・と思わせられるようなもの、という感じだろうか。わざわざそれを求めて自分から突っ込んでいくのは自虐的行為にほぼ等しいものがあるけれども、運悪くというか、自分の至らなさが原因のことも結構ありそうだけど、それに見舞われてしまったならば、なるべくならそこから糧を得ることができるかもしれないもの、というような意味づけがじぶんの中でできてきているような気がする。
「イヤなこと」をたまには味わっておかないと、どんどん他人の痛みがわからなくなっていきそうな気がするのではないかという感覚がどこかにあって、それをじぶんから故意に呼び寄せるような真似をするのははっきりいって傍迷惑な所業だけど、ひととのかかわりが増えてくると、どうしてもそういう「イヤなこと」に見舞われてしまう可能性もしだいに高くなってくるだろうから、どれだけそれを避けようと心がけても、遅かれ早かれ否応なく遭遇してしまうものなんだから、そういったときにどれだけじぶんの糧にできるか、欲をいえば、それにかかわることになってしまったひとたちにも糧にしてもらえるか、ってことが、「イヤなこと」がもつじぶんなりの意味なのかな・・・ってことは考えていたり。
とはいえ、他人がそこからどのような果実を得るのか、あるいは、痛みを覚えるのかはあくまでそのひとの問題なので、わたしにできることには限界はあるのだけれど、それでも、なるべくそのひとが果実を得られるようにするための働きかけはできるのではないか、とは思っていたりする。とはいえ、すべてがいいことずくめなんてまずはあり得ないだろうから、それに近づけるためには(はっきりいってケース・バイ・ケースだろうけど)そこで何ができるか、というところから始めることかな。
別にポジティブのススメとかではなくて、とことんネガティブを突き詰めていくと底がないことに気づいてしまうだろうから、あとは、それに飲みこまれるか、それともそれを飲みこんでしまうかの違いなのかもしれないなあって。
「呑気に見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする」
悲しみは決してなくならないし、誰の裡にもどうやらあるらしい。そう考えると、悲しみももしかすると、知らず知らずのうちに生きる糧になっているのかもしれない。そもそも、ただただハッピーだけが生きる楽しみだなんて、そんなことはないと思うし。とはいえ、悲しみだけが人生だ、と結論づけるのも、それと同じくらいナンセンスだと思うけど、喜びも悲しみも、それだけがすべてだと、ひとが思いたくなるようなものをもっているのは確かだと思う。
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、何かを眺めているだけの生活(これを「観想的生活」と呼んだらしい)は、神々の生活であって人間の生活ではない、と書いているらしい。それを眺めているだけで、本当にそれがもたらしてくれる感情の機微をすべて味わうことができるのだろうか? それがもっている味や匂いや手触りを、そしてそれが発する振動、つまりは音を感じることができるのだろうか?
それが「嫌なこと」のままだと、それがもたらす快や不快の一部しか眺めることができないだろう。もちろん、「見た目的にヤバい」が明らかな危険信号のことも少なくはないので、視覚を信じるな、などという気は毛頭ないのだけど。
それが「イヤなこと」になることで、実感できることってのもあるのだと思う。とはいえ、こういうのって、「イヤなこと」の中に「イイこと」が必ずあるに違いない、と決めこんでしまうと、どうやら(ある程度は「じぶん」というものをそれによって成り立たせている)幻想を木っ端微塵に打ち壊されてしまって、しばらくは立ち直れなくなることもあるらしい(それで無事に済んだとすれば、結果的には「よい経験」といえるものになることもあるのかもしれないけれどw)ので、まずは恐る恐る近づいてみて、しばらく様子をみてからそれでも大丈夫そうだったら、それに触れてみて・・・といったようなプロセスをまずはたどりながら、「イヤなこと」への処し方を身につけていくのがよいのかなって思います。
以上、ちょっとした備忘録として。


