名前はまだ無い。

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「呑気と見える人々も、心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする」にゃ!

自画自賛的オススメ記事:


「尊敬するということ。」

尊敬って悪いものではないだろうけど、こんな見方もできてしまうのかもね。


「I think, therefore, I am.」

言葉にはなっていないのだけど、そこにあるもの。


「あんたに何がわかるっていうのよ!」

理解したからって、それで終わりなのですか?


「ネガ-ポジ」

ポジティブだけじゃ危なっかしいし、ネガティブだけじゃ埒があかないし。


「神さまのはなし」

ああ、神さま!おれってヤツは・・・

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「イヤなこと」について、「嫌なこと」ではなくてw

長い間、人間というものをしているとたくさんの「イヤなこと」に出会う。昔は「イヤなこと」はすべて「嫌なこと」に思えたのだけど、やっと「イヤなこと」と思えるようになってきた気がする。ちなみに、「嫌なこと」というのは、それに近づくのすら億劫で、それを窺わせるちょっとした可能性があっても、近づくのを拒んでたものという意味合いだろうか。

「イヤなこと」というのは、それを窺わせるようなものが少なからずあったとしても、避けられないとするならば、それでも仕方ないかなあ・・・と思わせられるようなもの、という感じだろうか。わざわざそれを求めて自分から突っ込んでいくのは自虐的行為にほぼ等しいものがあるけれども、運悪くというか、自分の至らなさが原因のことも結構ありそうだけど、それに見舞われてしまったならば、なるべくならそこから糧を得ることができるかもしれないもの、というような意味づけがじぶんの中でできてきているような気がする。

「イヤなこと」をたまには味わっておかないと、どんどん他人の痛みがわからなくなっていきそうな気がするのではないかという感覚がどこかにあって、それをじぶんから故意に呼び寄せるような真似をするのははっきりいって傍迷惑な所業だけど、ひととのかかわりが増えてくると、どうしてもそういう「イヤなこと」に見舞われてしまう可能性もしだいに高くなってくるだろうから、どれだけそれを避けようと心がけても、遅かれ早かれ否応なく遭遇してしまうものなんだから、そういったときにどれだけじぶんの糧にできるか、欲をいえば、それにかかわることになってしまったひとたちにも糧にしてもらえるか、ってことが、「イヤなこと」がもつじぶんなりの意味なのかな・・・ってことは考えていたり。

とはいえ、他人がそこからどのような果実を得るのか、あるいは、痛みを覚えるのかはあくまでそのひとの問題なので、わたしにできることには限界はあるのだけれど、それでも、なるべくそのひとが果実を得られるようにするための働きかけはできるのではないか、とは思っていたりする。とはいえ、すべてがいいことずくめなんてまずはあり得ないだろうから、それに近づけるためには(はっきりいってケース・バイ・ケースだろうけど)そこで何ができるか、というところから始めることかな。

別にポジティブのススメとかではなくて、とことんネガティブを突き詰めていくと底がないことに気づいてしまうだろうから、あとは、それに飲みこまれるか、それともそれを飲みこんでしまうかの違いなのかもしれないなあって。

「呑気に見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする」

悲しみは決してなくならないし、誰の裡にもどうやらあるらしい。そう考えると、悲しみももしかすると、知らず知らずのうちに生きる糧になっているのかもしれない。そもそも、ただただハッピーだけが生きる楽しみだなんて、そんなことはないと思うし。とはいえ、悲しみだけが人生だ、と結論づけるのも、それと同じくらいナンセンスだと思うけど、喜びも悲しみも、それだけがすべてだと、ひとが思いたくなるようなものをもっているのは確かだと思う。

古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、何かを眺めているだけの生活(これを「観想的生活」と呼んだらしい)は、神々の生活であって人間の生活ではない、と書いているらしい。それを眺めているだけで、本当にそれがもたらしてくれる感情の機微をすべて味わうことができるのだろうか? それがもっている味や匂いや手触りを、そしてそれが発する振動、つまりは音を感じることができるのだろうか?

それが「嫌なこと」のままだと、それがもたらす快や不快の一部しか眺めることができないだろう。もちろん、「見た目的にヤバい」が明らかな危険信号のことも少なくはないので、視覚を信じるな、などという気は毛頭ないのだけど。

それが「イヤなこと」になることで、実感できることってのもあるのだと思う。とはいえ、こういうのって、「イヤなこと」の中に「イイこと」が必ずあるに違いない、と決めこんでしまうと、どうやら(ある程度は「じぶん」というものをそれによって成り立たせている)幻想を木っ端微塵に打ち壊されてしまって、しばらくは立ち直れなくなることもあるらしい(それで無事に済んだとすれば、結果的には「よい経験」といえるものになることもあるのかもしれないけれどw)ので、まずは恐る恐る近づいてみて、しばらく様子をみてからそれでも大丈夫そうだったら、それに触れてみて・・・といったようなプロセスをまずはたどりながら、「イヤなこと」への処し方を身につけていくのがよいのかなって思います。

以上、ちょっとした備忘録として。
「話術」と言えば、どうしても、「言葉巧みに 」という表現が示すように、良い意味で連想されることがあまりないように思う。だから「会話術」などという言い方がされるのかもしれないのだけど、会話ができれば言葉を使いこなすことができているのかといえば必ずしもそうではないないような気がする。

意味のまとまりをもつ表現を、適切な時に、適切な場面で、自分の意図を伝えるものとして(時には自分の意図した以上のことを、事態を好転させるようにしむけるものとして)発することができることができるのがおそらくは「話術」で、ただ会話が成立することだけでは、この要件をみたしていないことが割とあるのではないだろうか。

会話は、自分の意向を置いておいてとりあえず合わせておく場合、あるいは、相手の意向がどのようなものであるかを捨象してしまった上で交わした場合でも、ひとまずは「成立している」と言えてしまうのだから。

とはいえ、意味のある言葉のやりとりだけが会話と呼ぶに足るのか、ということになると、そうとは言い切れないだろう。つまり、明確な意味や意図がそこにべったりと貼りついていないからこそ交わされる言葉というものがある。

あいさつなんかがその典型であるが、つまり、それが「意味以前の意味」を表すからこそ意味をもつ言葉というものも確かに存在するのである。あいさつができることがなぜ大事なのかといえば、無意味という意味を付与するからなどではけっしてなくて、言葉で構成される世界そのものに意味の付与を開始することを告げるものであるからなのである。

簡単にいえば、あいさつによって、「私はあなたがいるということを確かに認識しました」ということを私たちは告げるのであるが、裏を返せば、あいさつによって、私たちは相手との関係に巻きこまれてしまうことにもなるのである。つまり、意味の世界がそこから始まるのである。

意味の開始を告げないままに意味を伝えることも可能である。それはあいさつから始まらない会話のことが多いのであるが、そこでは意味が前景化する。つまり、まずは言葉があってそこから意味が立ち現われるのではなくて、意味があってそれに言葉が呼びおこされるのである。

しかし、言葉は必ずしも意味に先行するだけなのであろうか。意味が言葉に先行することによってさらなる意味がわき上がってくるということはないのだろうか。「話術」は、言葉を意味に奉仕させることを連想させ、話者が用意した意味(つまりは筋書き)に、いかにして相手を乗せるかという技術を意味するように捉えられるから、好ましい印象をあまり与えないのだろう。

言葉は人間が繰り出すものであり、言葉によって人間が語らさせるものではないのであるが、人間が自らの意思のみにだけにしたがって言葉を繰り出すということは本当に可能なのであろうか。言葉を語らされるという事態が、それがある事実によって行われることもだろうし、あるイメージによって行われることもあるかもしれないが、人間にやってくることはないのだろうか。

もちろん、ひとは「パンのみによっては生きられない」のであるが、同時に、「パンなしでは生きられない」のである。意味が「パン」と切り離されることは、究極的には不可能なのである。とはいえ、「パン」だけが人間の生活に意味を与えてくれるわけではない。

「会話」だけではパンは生まれない。しかし、「話術」は、すべてを「パン」にしてしまう。パンを手にしながらも、いかにしてパンを口から離すことができるのか。本質的には、おそらくはパンの問題であったはずの意味が、それ自体としてパンを手放すことをも志向するというこの奇妙な事態が意味していることは何であろうか。

言いたいことはつまり、「意味」を無視してしまったり軽んじてしまっても、「意味」を過度に崇拝してしまっても、それは言葉とうまく付き合えていないのではないか、ということにすぎないのである。

言葉は「パン」を生み出すためのものでもあり、「パン」を口から離すためのものでもある。あるいは「ワイン」を作るためのものかもしれないが、ワインを飲んだくれているだけではパンを作ることはできないであろう。
「うさぎ、うさぎ、何見て跳ねる」

憧憬とはある対象との一体化を望むことなのかもしれない。例えば、ある人物がいて、その人と同じものを見たいとか、聞きたいとか、感じたいとか、持ちたいとか・・・。そこでは人格の個別性は融解している。正確に言えば、人格がその個別性を忘却している。しかし、人格の個別性が抹消してしまうことはあり得ない。模倣を考えてみよう。模倣は対象を必要とする行為なのであるが、まさに対象をもつことによって、模倣は人格の個別性をいっそう強調するのである。対象は人格にとってはつねに外在的なものであるからこそ対象なのであって、内在的な対象というものはそもそもありえないからである。人格の個別性を前提しながら、その個別性を乗り越えようとするのが模倣である。だから、うさぎは月に憧れることができたとしても、月と一体化することはついにはできないのである。

「十五夜お月さま、見て跳ねる」

うさぎは何を求めているのであろうか。月で餅をつくことであろうか。それとも、大地の束縛から解き放たれることなのだろうか。あるいは、満月の美しさに心を奪われているのであろうか。それはうさぎにしかわからない。しかし、何かに憧れていることだけはおそらく事実であろう。正確に言えば、うさぎを見ている人がうさぎが何かに憧れているのだと思っているだけなのであるが、観察者の意識がうさぎと一体化しているのだけは確かなのだろう。観察者はうさぎを模倣しているのではない。少なくとも、うさぎの意識を模倣してわけではない。感情移入というのは、模倣とは別のものなのである。つまり、十五夜お月さまを見ている自分を、うさぎに重ね合わせているだけなのである。

「うさぎ、うさぎ、何見て跳ねる」

そんなことは、うさぎに聞いてみないとわからない。でも、うさぎの気持ちはわかったつもりになれるし、うさぎの真似をすることもできる。でも、うさぎと一体化することはできない。憧憬とは、つねに対象との一体化を望みながらもそれを果たすことができないということを内属させているのである。仮に感情移入ならできると言ってみたところで、対象そのものになることができるわけではない。それでは、模倣や感情移入は単なる自我の独り遊びにすぎないのだろうか。

「十五夜お月さま、見て跳ねる」

とはいえ、観察者にもできることはある。十五夜お月さまを見て跳ねることはできる。あるいは、十五夜お月さまに憧れてうさぎが跳ねていると他者が思っていると想定することはできる。他者の意識を想定できるということが、模倣の産物であり、感情移入の産物であるとすれば、自我の独り遊びのように見えることが、もしかすると自我の独り遊びではない可能性を提示するものとしての他者の意識を想定することができるということを意味するのではないだろうか。つまり、憧れによって、自我が、独我論的認識を出発点にしながらも、それに収まり切らない超越的な他者を感受するかもしれない、と考えるのは短絡的すぎるだろうか。

でも、

うさぎさん、うさぎさん、月には空気がないんだよw
「人は欲しさえすれば、あらゆるものごとを知ることができる」・・・近代社会はこのような合理性信仰のもとにかたちづくられてきた。そして、近代社会の成立と足並みを合わせながら自然科学が発展してきた。自然科学において、ある限定された条件のもとでは、物質は予測可能な挙動を示す。正確にいえば、限定された条件においてはある現象は再現可能である、ということが科学的実験の有意性を根拠づけている。この「ある限定された条件のもとでは」というのが曲者である。つまり、なんらかの理由で想定を超えた事態が生起したとき、それは再現可能性の檻から飛び出してしまうのである。

たとえば、「地球に巨大隕石が衝突すれば、大地が天変地異に覆いつくされてしまう」ということは予測可能である。もしかすると、「いつそのような事態がやってくるのか」といったようなこともわかるのかもしれない。もっとも、そのような事態が到来したとすれば、私たちにはもはや成すすべはないのであるが・・・。

しかし、私たちの社会は、人間たちが営みを続けることができることを目的とした組織体である。しかも、そのサイクルを維持するために、地球からエネルギーを奪い、それを消費することで成り立っているのである。社会を維持するためのエネルギーが莫大に存在することが、おそらくは近代社会の成立要件である。自己の拡大再生産を求めるという資本の性質ともなじみがよかったのであろう、近代社会の高い生産性は資本主義と固く結びついているようである。自己が拡大するという前提において、その営みの維持が保証されるように見えること、これが「わたし」を中心とした近代的自我の成立と関連があるようにも思われるが、ここでの中心的主題ではない。

外部からエネルギーを収奪し、そのエネルギーをもとに生産・消費活動を行い、そして廃棄物を外部(と呼べるものが地球上にまだ存在するかどうかは別として)へと還すこと、それが運動体としての社会である。運動体としての社会は、外部を飲みこみながら成長するのであるが、それを内部として完全に同化してしまうことは不可能である。消化管を通る食物のように、外部は変容をきたしながらも、そのまま外部として存在し続ける。内部と呼べるものの実体は、社会を構成する人間たちなのであり、人間なき社会というものはナンセンスなのである。(仮に存在したとしても、それはもはや「社会」としての意味をもたないものである。)

話を戻すことにする。自然は、それがどこまでも外部として存在するので、人間の与えた限定条件のなかでしか制御することができない。つまり、人間の想定などというものを、どこまでも超えうるものである。なぜなら、外部としての自然そのものが人間の想定に自らの意志で従うということはありえないからである。近代社会の合理性信仰は、自然にまで拡張することはできないのである。少なくとも、さまざまな仮定のもとに予測し、その結果にもとづいて自然を改変することは(そのための技術さえ整っていれば)可能である。しかし、仮定のとおりに外部としての自然が動いてくれるかは別である。だから、自然の力を扱う際には、その自然を限定条件のもとに閉じ込めなければならない。

パンドラの箱はこのようにしてできあがる。表には出しておけないエネルギーはその横暴さのゆえに幽閉されるのである。もちろん、幽閉したからといって、檻の中の危険性そのものが除去されるわけではないのであるが・・・。

人間たちによってまだ幽閉されていない外部のエネルギーも同様の危険をもっている。そもそも、社会というものは、外部としての自然の脅威から身を守るために人間たちが編み出したものである。私たちは社会の外部に自然があると考えがちであるが、実は、自然の外部に社会があると表現するほうが正確なのかもしれない。外部としての社会は、つねに自然から疎外されているのであり、だからこそ、人間たちは自然を(心構えとしてなどではなく、その性質からして否応なく)おそれねばならないのである。

私たちは自然を完全に制御することはできないが、それでも自然からエネルギーを奪うことによってしか生きることができない。このような前提から、自然と社会の関係を考えないといけないのだと思う。
川本真琴という歌手がいます。「1/2」という曲が「るろうに剣心」というアニメのオープニング・テーマ曲になっていたので、知っている人も少なくないかもしれませんね。昨年発表されたアルバム「音楽の世界にようこそ」に「アイラブユー」という曲が収録されています。その曲を聞いてみた感想は「彼女がやりたかったのってホントはこういう音楽なんだろうな」というものでした。しっとりとして落ちついた曲なのですが、昔の曲と比べるとどことなく爽快感と刺激に欠ける曲という表現も可能かもしれないなあ、とも思うわけで。とはいえ、善し悪しを別にして、いまの彼女のほうが等身大なのかもですね。

川本真琴 feat. TIGER FAKE FUR「アイラブユー」


デビュー曲は「愛の才能」という曲で、岡村靖幸のプロデュースだということを最近知って、妙に納得してしまったのでした(歌い方も、どことなく岡村靖幸に似ているしw)。岡村靖幸といえば、独特の歌い方とダンスのスタイル、そして他の誰にも真似できないであろう個性的な歌詞が、まさに「キモかっこいい」歌手なわけですが、その抑えようとしても抑えきれない個性が「愛の才能」にも滲み出てしまっています。(「だいすき」という曲に、「君が大好き あの星空より 大好き 赤いワインより」という歌詞が出てくるのですが、こんなセリフ、凡人には絶対に思いつかないでしょw )

岡村靖幸「だいすき」


岡村靖幸「どぉなっちゃってんだよ」


「愛の才能」のバック・コーラスを岡村靖幸が担当しているのですが、なんと、ところどころで、メイン・ヴォーカルの川本真琴よりも前に出てきてしまっていますw

「愛の才能」の作詞は川本真琴、作曲は岡村靖幸。思春期の少女が不安定感を伴いながら懸命に背伸びしようとしている様子が歌詞に表現されていて、それがアップテンポな曲調と、どことなく幼さを残しながらも力強さを内に秘めているようにも見える彼女のルックスがあいまって、歌手を含めてとても魅力的な曲になっています。

川本真琴「愛の才能」


そのあと、プロデューサーが石川鉄男にかわってからも、「DNA」や「1/2」、「桜」といったとても素晴らしい曲を発表しています。「ブロッサム」という曲を発表してからは、しばらく活動休止していたそうで、昨年、9年ぶりにアルバムを出されたのだとか。そのアルバムに収められているのが、はじめに紹介した「アイラブユー」なのです。いまはどうやら郷里に戻られているみたいなのですが、その郷里にたいする思いも歌詞から読み取れるように感じました。

個人的には、川本真琴と岡村靖幸というお気に入りの歌手がつながっていたことが驚きだったのでした。

川本真琴「DNA」


川本真琴「1/2」

先日、ピグで英国人のひとと小一時間ほど話していたのですが、その方は近々日本に留学を考えておられるらしく、日本にも遊びにきたことがあるそうで、あまりにも流暢な日本語だったので、はじめは日本語のネイティヴではないかと思ってしまったほどだったのでした。

そこで興味深かったことが2つほどあって、

・話し言葉よりも書き言葉のほうが、内容に深みが出てくるから、書き言葉って大事。
・英語のネイティヴなので、ずっと日本語でやりとりしているととても眠たくなるらしい。

こういった話題がでてきたことが印象的だったのでした。

リーディングやライティングはある程度時間をかければできるけれども、リスニングやスピーキングのような即座に反応しないといけないような英語の技術にはほとほと乏しいわたしとしては、「書き言葉が大事」という意見が、とても意外に感じられたのでした。

言われてみれば、書き言葉のほうが文章を推敲することで伝えたい内容や表現を洗練させていくことができるし、文章の読み手に対する配慮も、もしかすると、会話の聞き手に対する配慮ほどには必要としないのかもしれないですからね。とはいえ、それが筆記であっても発語であっても、相手に対する配慮というものを失してしまっては、意味がないわけですが。

「ずっと日本語でやりとりしていると眠たくなる」というのは、我が身に当てはめてみて、「英語ばかり使っていると眠たくなる」と置き換えてみると、とてもしっくりくるような気がしたのでした。「英語を読んでいると眠たくなる」というひとがわたしの周囲には割といるものだから、ますます納得してしまったのでした。

ちなみに、「ずっと日本語ばかりでズルい!」とその方には言われてしまったのでしたw

外国語って、日頃接することがほとんどないことから考えても、はっきり言って異物ですから、それを消化しようとすれば、大気のようにわたしたちを取り巻いている母語を呼吸するよりは、はっきりいって負担がかかるわけです。だから、脳なり身体なりが疲労して、眠くなるのではないだろうかって思うのです。

ただ、母語というのは、それが微細に渡って理解できるからこそいっそうセンシティヴで、淀んだ空気や汚れた空気が心身に大きな打撃を与えるように、ちょっとした歪みや乱れ(あるいは、それぞれの状況に応じて、悪意、明後日の方向を向いた善意、あまりに過剰な関心やあまりの無関心という表現なども可能かもしれない)が、その言葉を受け取った者に多大なダメージを与えることも十分ありえることでしょう。異物だと吐き出してしまえばよいのかもしれないのだけど、空気を通していったん取り込んでしまったものをすべて吐き出すことはそうそう簡単にはできないのです。

外国語だと、理解が透徹していないからこそ、とらわれずに済ますこともできるかもしれない言葉を、母語だと、理解がなまじ透徹してしまっているからこそ、それにとらわれてしまうことっていうのも、ありうるのではないでしょうか。もっとも、自分では透徹しているつもりの理解というのが、固定観念にすぎないということもありうるでしょう。しかし、たとえそれがどれだけ現実からかけ離れた固定観念であったとしても、そんなことはお構いなしに、わたしたちはその偏見めいた固定観念に基づく理解にこそ取りこまれてしまうことがありうるのです。

外国語は異物であるがゆえに、そこから距離を置きやすいという側面があります。とはいえ、母語でもって外国語を理解するというプロセスを経る以上は、母語によってもたらされた固定観念を外国語で思考する際に拭い去ることは至極困難なことでしょう。しかし、このことは、あたかも食物が食道を通る感触を通してこそ食道がそこにあることに気づかされるように、母語によって形成された観念を、外国語という異物を通して、母語によるものとはまた違った視点から眺めることができるようになり、さらにはそれを相対化させられる可能性を決して否定するものではないのです。

母語は空気なようなものであるがゆえに、それと距離を置くことが意外なほどに難しいという側面があります。とはいえ、母語が、それなしでは、あるいは、それが濁ってしまっては、思考が窒息したり錯乱してしまうものである以上は、母語とのかかわり方こそが、あるいは距離の置き方こそが、わたしたちが生きるという局面において大きな意味を持つのです。生きるとは、それが人々の中で生きるのであるかぎり、言葉の海を泳ぎ続けることでもあるのですから。

「貧すれば鈍する」、あるいは「衣食足りて礼節を知る」という言葉は、まさに「母語と適切にかかわることができなければ心身の健康に影響を与え、母語と適切にかかわることで外国語ともうまくかかわることができる」というように、言葉の次元に置きかえることも可能なのかもしれないな・・・なんてことを思ったのでしたw
―監督は目も覆いたくなるような悲惨な隣人殺しの戦争を、艱難辛苦を乗り越えた。試合中に何が起こっても動じない精神、あるいは外国での指導に必要な他文化に対する許容力の高さをそこで改めて得られたのではないか。

「確かにそういう所から影響を受けたのかもしれないが・・・・・・。ただ、言葉にする時は影響を受けていないと言ったほうがいいだろう」

オシムは静かな口調で否定する。

「そういうものから学べたとするのなら、それが必要なものになってしまう。そういう戦争が・・・・・・」

―「オシムの言葉」(木村元彦、集英社文庫)


戦争の体験談を語るわ
http://mamesoku.com/archives/183772.html


というのを読んでいて、無性に「オシムの言葉」を読みかえしてみたくなったので、本棚から引っ張り出してきたのでした。ちなみにこの引用の箇所は、巻末解説を書かれている岡崎満義さんも、もっとも好きな個所としてあげられているところです。

いまや解体されてしまったユーゴスラヴィア代表サッカーチームの最後の監督を努め、日々民族間の緊張が緊迫の度を増しているなかであってもユーゴの人々から愛されつづけ(今でも民族の枠を超えてオシムを愛するものは数え切れないそうである)、みずからも代表監督としてのつとめを果たそうと苦闘し、サラエボ包囲の際には妻や子どもたちが包囲網の中に取り残されることになり・・・こういった苦難に襲われたことが監督としてのオシムを強くしたのではないか、というインタヴューアーの発言に対するオシムのことばが、このことばなのです。

説明するまでもないでしょうが、オシムというのは、J1リーグの当時弱小チームであったジェフ市原の監督としてチームを大躍進させ、その功績をうけて日本代表サッカーチームの監督をつとめた人物です。

この本はとても読み応えのある本なので伝えたいことはたくさんある(オシムというひとについて、「走りつづける」ことを重視する姿勢、「観客のためのサッカー」を心がけること、ウィットの効いた言葉の裏にある鋭い分析眼、などなど)のですが、焦点がぼやけてしまいそうなので、引用した言葉についてにのみ書いてみることにします。

苦難はひとを育てるのかもしれないけれど、ひとを育てるために(あるいはひとが育つために)苦難を求めるのであれば、本末転倒なのではないか・・・というメッセージだと、わたしは受け取りました。

苦難なんて本当は経験しないほうがよいのかもしれない。しかし、みずから進歩しようという意欲と姿勢はもちつづけなければならない。

起こってしまったことから学ぶことは非常に大切であるし、同じことを繰り返さないようにすべく知恵を絞ったり行動したりすることはそれ以上に大切なことなんだと思います。しかし、(おそらくは試練に立ち向かうことができるようにしておくために)みずからを育てるということこそがもっとも大切なのであって、もしじぶんや他の誰かを育てるというプロセスを何か大きな苦難に期待してしまうとすれば、それこそが最大の過ちなのかもしれません。

それにしてもオシムは本当に偉大なひとなんだなあ・・・という感想に尽きるのでした。


オシムの言葉 フィールドの向こうに人生が見える (集英社文庫)/木村 元彦

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「頑張れ」と言われてなぜだか腹立たしく思ったことがあったので、そのことについて書いてみます。

「頑張れ」ということばには、そのときの文脈によっては「お気の毒に」と同じような感じで「わたしには関係ないけどね」という含意がなされているかのように、特にこのことばをなげかけられる立場になったときには、思ってしまうことがあります。

「わたしに降り掛かった出来事に対処しなければならないのはわたしなんだから、あなたには関係ないといえば確かに関係ないのだけど・・・」なんてことを考えてみたりなんかして、ふと、そんなことを思ってしまうのは寂しいからなのかもしれないな・・・となんてことを思ってしまったわけで。

「こちらの気分を害するようなことばを吐くくらいなら、何も言わないでほしいな…」というのもあったりするのだけど、寂しいときに「わたし独りなんだ・・・」とまざまざと見せつけられてしまうのは、見たくないものを見せつけられているようで、何だか心苦しいかったりするのです。

そういえば、シモーヌ・ヴェーユというひとの「重力と恩寵」という作品のなかに、こんな文言があったような:

「純粋さとは、汚れをじっと見つめる力のことである」

どうしてこの文言が浮かんできたのかよくわからないのですが、なんとなく涌いてきてしまったのでした。

素直さに欠けているから、ことばを文字どおりに受け取ることができていないのか、それとも、ことばの裏側に透けて見えてしまうものを直視するだけの度胸がもてないから、ただただ悶々とした心地になってしまうのか。

そういった軽薄さや鈍重さと感じられるものを見据えながらも、ことばから目を背けないでいること、あるいは、ことばを目撃してしまったからにはどうしても逃れようがない、そこに否応なく現れてくるさまざまなイメージたちとともに佇み続けること。

「頑張れ」ということばは、意味の軽さと重さといったものを同時にもたらすという点で、現象と本質の乖離という事態を相手に知らしめてしまう。その事態は、孤独に見初められた思想家にはもしかすると糧にさえなるかもしれないが、市井のひとには、時にやり場のない孤独の哀しみをもたらすことになるだろう。

そのように考えると、わたしには孤独を見据えるだけの度胸が足りていないということだけがわかるのです。そもそも、(それを成し遂げることが可能であるかどうかということは別としても)孤独を飼い馴らそうという努力に欠けているからこそ、「頑張れ」ということばひとつに些細な言い掛かりをつけてしまうのかもしれないのだけどw
ニコニコ動画巡礼──最古の動画を巡る旅

という記事を読みながらニコニコ最古の動画たちについて「そーなんだ」と感心なんかしていたところ、最古の動画のうちのひとつに、SURFACEという音楽グループの曲が使われていたので懐かしく思って、最近のSURFACEについて調べてみたのでした。

今年の6月13日をもって解散されていたのでした。

「ショムニ」というドラマで使われていた「それじゃあバイバイ」と曲がとても印象に残っていて、いま聞いてみてもとても素晴らしい曲だと思います。サビには一見すると軽いノリの歌詞、疾走感があるメロディー、とはいえ、総じてみれば、こちらの虚をついてくるような皮肉を散りばめたリリック。久しぶりに聞いてみて、そのシニカルな言葉が「痛いとこを突いてくるな」なんて、思わず苦笑いさせられてしまったのでした。

虫も殺さぬ顔して キツイ事を平気で言う
自分じゃできもしないで 人に押し付けてばかり
まわりの顔を気にして となりに習い物を言う
ろくに話も聞かずに 相づち打って作り笑い


出だしの歌詞がこれですからねw
そして、

自分らしく生きてますか?
気持ちイイことそこにありますか?


と聞いてきますw
それから、

アッカンベーしてさよなら かるいノリで行きましょう
さんざん悩んでみても 本当なんにもなりゃしないよ
今が楽しいから あなたがたもぜひ
一度試してみたらどう? それじゃバイバイバイ


これがサビですw

疾走感あふれるリズムと相まって、大きなカタルシスをもたらしてくれる曲だと思います。ノリだけでやっていけるわけではないだろうけど、そういった「気持ちイイこと」を見失ってしまっても、それってもったいないような気がしますね。

「あれこれ悩んで「口だけ」の人間になってしまうのならば、ウジウジと悩んでばかりいないで、いっそのことやってみればいいじゃない。自分の人生なんだしさ」って、そんなことを言われているような気がしたのでした。

最後はこんな感じ。

あなたのことだからまた 落ちこんだりしちゃうんでしょう
そんな時はぜひ僕に 話してみてください
なんだかんだ言っても そう君が好きだから
うまく言えないんですけど マイペースそれもいいじゃない?
それじゃあバイバイバイ それじゃあバイバイバイ
それじゃあまた明日ネ バイバイバイ


丁寧な言葉づかいとくだけた言葉づかいが混ざっているのが、奇妙な心地よさを醸し出しているようにも思います。上辺の付き合いとそこから踏み込んだ付き合いの境界が象徴されているのかもしれません。

「好き」ってことは、「なんだかんだ言っても」、「うまく言えない」かもしれないのだけど、それでも受けとめるべく、伝えることなんだな。「また明日ネ」って言えることなんだな。そんな風なメッセージとして深読みしてみたのでした。

自分にはできているのだろうか、そして、他の誰かにとってのそんな誰かでいることがわたしにはできるのだろうか・・・なーんてw

Something ELseといい、SURFACEといい、思い出のバンドが解散していくのはなんかせつないですね。

それじゃあバイバイバイ

↓ You Tube にあった「それじゃあバイバイ」のPV
http://www.youtube.com/watch?v=jRNIG2e2GrQ
たぶん、たぶんのことですけど、間違いというのは人間にしかあり得ないんではないかと思うのです。それは、ネズミだって学習はします。ネズミも、もしかすると、こんなふうに思っているかもしれません「昨日、この道を行ったら食べ物に出会えると思って行ってみた。ありつけなかった。今日はそっちの道にしよう」。でもそれが人間だったらどうかというと「昨日、この道を行ったら食べ物に出会えると思って行ってみた。けれど、ありつけなかった。今日はそっちの道にしよう」でしょう。

ここのところです。「思って行ってみた。けれど……」の「けれど」です。この接続詞が大事なのです。人間らしいところなのです。前のことと後のことを切り離して別々のいいっぱなしするのではなく、その間に関係をみいだして表現するのが接続詞の役目です。こういった、繋げると作用を行うというのが人間の特徴です。そしてこういったとき初めて「この道に食べ物があると思ったけれどそれは間違いだった」という発言も可能になるわけですから、間違えるのは人間の特徴ということになるのではないかと思うのです。

―「本当に生きるための哲学」(左近司 祥子、岩波現代文庫)


昔、ある集まりでソクラテスについての発表をしたことがあるのですが、そのときに参考文献のひとつとして、左近司さんのこの本をとり上げたのでした。

そして、「人間には間違える可能性がある」ということが、「時間の連続性」(それはわたしたちの記憶としてあらわれる)、そして、「時間の連続性」の比喩としての「空間の連続性」(それはわたしと言葉を交わすことができる「わたしのような人」、つまり、「他人」としてあらわれる)という話にまで、本書では広がっていきます。
(ちなみに、「空間の連続性」が「時間の連続性」の比喩にすぎないのは、わたしの意識(それこそが、間違いをおかしうる当のものである)は場所をもたないがゆえに、空間の延長と間違いの問題を関係づけることには意味がないから、だそうです。)

ちなみに、わたしが間違いをおかしていたとして、「他人」から指摘されることでわたしの間違いが正されるがあるのですが、「他人」もわたしもともに間違っているなんてこともあり得ます。

しかも、

私の言うことにも私がすることにも、間違いの可能性があるのです。でも、「私」は間違いを望んではいません。とりわけ、「善い」ことについては、にせの「善さ」を掴まされたら烈火のごとく怒ることになっています。
―同上


自分で自分の間違いを見出すだけでも大変なのに、それを指摘してくれる他人も同時に間違っている可能性が依然として残されしまう・・・はっきり言って袋小路。

自分が間違っていることもありうるし、他人が間違っていることもありうるし、自分も他人も間違っていることもありうる・・・そもそもこういった問題が立ち現われてくるのは、そもそも人間というのは、真に「善い」ことを求めるものであることに由来するのかもしれません(でも、間違いの可能性を完全に拭い去ることはできない・・・)。

関係性のうちにすでにある(言葉を使うということがすでにそのことを意味している)人間にとって、他人なくして「善さ」を志向するというのは、もはや不可能なことでしょう。

次回に続きますw