話すことは難しい。
友達や職場の人間と話す時ではなく、
夫婦で夫の私がモラハラの妻に話すことが難しい。
なぜなら。
お互いに正義があり、
そして、正義の対決になるから。
モラハラの特徴は、「自分が正しい」ことにある。
大前提が正義である以上、それ以外は正しくないのである。
正しくないとどうするか。
もちろん、相手を正すのである。
いかなる手段を用いても。
でも、どの本を読んでも、
セラピーに通っても、
カウンセリングを受けても、
どんな人に相談しても、やはり、
話すということは大事という。
僕もそう思う。
ただ、難易度が高いだけ。
僕は、日頃から妻に対して、
本音や自分の意見はあまり言わない。
長い付き合いの中で、
そうなっていったし、
そうせざるを得なかったと思う。
もし10年前に戻れたとしても、結局離婚しない限り
やっぱりこうなっていたと思う。
でも、時には夫婦で話す時間を作る。
できるだけ。
そうできる範囲で。
これは夫婦関係において、
妻の話を聞くということも仕事の一つだと認識している。
いい意味で。
そして、妻も話を聞く時に思うこと。
話す=放す
という意識を持っている。
これはどこかの本で読んだ記憶がある。
女性(妻)の不満やストレス、誰にも言えないことを
解放する時間を作ってあげる。
という意味も含まれている。
と、思って聞いている。
その内容がたとえ僕に対する不平不満だとしても、
理不尽で攻撃的であっても、
薄っぺらい挑発であっても、
解放のために必要なことだと思って聞いている。
でも、心は萎える。
モラハラによる正義の押し付けは、
心が折れるまで続く。
完璧主義者は自分を完璧とは思っていない。
完璧に憧れる人だと思う。
少なくとも僕の知りうる限り。
その完璧を目指す人が完璧を目指さない人を見ると
腹も立つし、言い負かしたくもなるんだと思う。
どうしても言わないと気が済まない。
強迫性障害
と呼んだりもする。
その話はまたするとして、
話す=放すにもお互いにリスクが伴うということ。
話す(放す)方も聞き手が理解できていないので、
イライラは増殖するし、
聞き手も単純なネガティブの連続か自分への攻撃なので、
相手を理解し受け入れる余裕もない。
「結局、愛情がないってことじゃない?」
みたいなありきたりの言葉で締められる。
「そんなことないよ」
を聞きたいのか、モラハラの正義の向こうに
まだ期待を見出そうとしている。
本当に精神的にこんなに脆く見えて
最強の図々しさはないと思う。
放す(話す)ということ。
大事だと思う。
でも、モラハラ被害者に必要なのは
放すではなく、
離す(距離をとる)ことだと思う。
物理的でも意識的でも、
精神的でもいいので、距離を取る。
これは自分を守るために大事なこと。
「そうだね。僕が悪かったね」
って言ってもいい。
「今後、そうするようにするね」
って言ってもいい。
でも、
「僕は頑張っているし、全然悪くない!」
とは思っておいて欲しい。
僕はそうしている。
自分の人生を幸せにできる力をすでに持っている。
こう信じて、モラハラ妻の話を聞いている。
話し合いではないかもしれないけど、
それから初めてもいいと思う。
モラハラの正義と対等にディスカッションなんて
そもそもできないんだから。