話すということ【後編】〜話す=放すということ〜 | モラハラ妻の支配からの脱却

モラハラ妻の支配からの脱却

40代の自営業の男であり、2児(娘7歳・息子6歳)の父です。
モラハラ妻と4人家族で、この度離婚という方向性で同意。
モラハラからの脱却に悪戦苦闘している毎日です。

話すことは難しい。

 

友達や職場の人間と話す時ではなく、

夫婦で夫の私がモラハラの妻に話すことが難しい。

 

なぜなら。

 

お互いに正義があり、

そして、正義の対決になるから。

 

モラハラの特徴は、「自分が正しい」ことにある。

大前提が正義である以上、それ以外は正しくないのである。

 

正しくないとどうするか。

 

もちろん、相手を正すのである。

 

いかなる手段を用いても。

 

 

でも、どの本を読んでも、

セラピーに通っても、

カウンセリングを受けても、

どんな人に相談しても、やはり、

話すということは大事という。

 

僕もそう思う。

ただ、難易度が高いだけ。

 

僕は、日頃から妻に対して、

本音や自分の意見はあまり言わない。

 

長い付き合いの中で、

そうなっていったし、

そうせざるを得なかったと思う。

 

もし10年前に戻れたとしても、結局離婚しない限り

やっぱりこうなっていたと思う。

 

 

でも、時には夫婦で話す時間を作る。

できるだけ。

 

そうできる範囲で。

 

これは夫婦関係において、

妻の話を聞くということも仕事の一つだと認識している。

いい意味で。

 

そして、妻も話を聞く時に思うこと。

 

話す=放す

 

という意識を持っている。

 

これはどこかの本で読んだ記憶がある。

 

女性(妻)の不満やストレス、誰にも言えないことを

解放する時間を作ってあげる。

という意味も含まれている。

 

と、思って聞いている。

 

その内容がたとえ僕に対する不平不満だとしても、

理不尽で攻撃的であっても、

薄っぺらい挑発であっても、

解放のために必要なことだと思って聞いている。

 

でも、心は萎える。

 

モラハラによる正義の押し付けは、

心が折れるまで続く。

 

完璧主義者は自分を完璧とは思っていない。

完璧に憧れる人だと思う。

少なくとも僕の知りうる限り。

 

その完璧を目指す人が完璧を目指さない人を見ると

腹も立つし、言い負かしたくもなるんだと思う。

 

どうしても言わないと気が済まない。

 

 

強迫性障害

 

 

と呼んだりもする。

 

その話はまたするとして、

 

 

話す=放すにもお互いにリスクが伴うということ。

 

 

話す(放す)方も聞き手が理解できていないので、

イライラは増殖するし、

聞き手も単純なネガティブの連続か自分への攻撃なので、

相手を理解し受け入れる余裕もない。

 

「結局、愛情がないってことじゃない?」

 

みたいなありきたりの言葉で締められる。

 

「そんなことないよ」

を聞きたいのか、モラハラの正義の向こうに

まだ期待を見出そうとしている。

 

本当に精神的にこんなに脆く見えて

最強の図々しさはないと思う。

 

放す(話す)ということ。

 

大事だと思う。

 

でも、モラハラ被害者に必要なのは

 

放すではなく、

 

離す(距離をとる)ことだと思う。

 

 

物理的でも意識的でも、

精神的でもいいので、距離を取る。

 

これは自分を守るために大事なこと。

 

「そうだね。僕が悪かったね」

って言ってもいい。

 

「今後、そうするようにするね」

って言ってもいい。

 

でも、

 

「僕は頑張っているし、全然悪くない!」

 

とは思っておいて欲しい。

 

 

僕はそうしている。

 

自分の人生を幸せにできる力をすでに持っている。

 

こう信じて、モラハラ妻の話を聞いている。

 

話し合いではないかもしれないけど、

それから初めてもいいと思う。

 

 

モラハラの正義と対等にディスカッションなんて

そもそもできないんだから。