トルストイ『戦争と平和』人物事典14(118人目)

 

 ☆☆☆・クトゥーゾフ将軍(1745~1813年) (1-1-3)

 

 

 ロシアの総司令官。1805年のアウステルリッツの会戦に敗北して左遷されるが、1812年のボロジノ会戦を前に、再び総司令官になった。そして、ナポレオンのロシア遠征を追い返したあと、その役割と人生を終えた。『戦争と平和』の「戦争」パートは、ナポレオンVSクトゥーゾフの戦いが、ニコライ・アンドレイ・ピエール3人の視点から描かれる。歴史はナポレオンを英雄だと言うが、トルストイはクトゥーゾフを評価している。ただし、戦争は個人の意志を超越したものであるという歴史観を表現したいので、二人の指揮官は前面に出てこない。彼らは英雄的な活躍はまったく描かれず、ぼんやりしていたり、ご飯を食べたり、居眠りしたり、失敗したりするところが強調されている。歴史を、神話から科学へと昇華しようとする19世紀の学問的趨勢が、このような描き方を選ばせたのだろう。

 

アウステルリッツ

 

閲兵式(プラウナウ)~退却(オリュミッツ)

 1805年、総司令官として3万5千のロシア軍を率いる。こめかみにイズマイル戦の際に貫通した銃弾の傷がある。隻眼。最初の場面では、クトゥーゾフはポドリクス連隊(ドーロホフが所属)を閲兵しており、20名ほどの随員が従っている(コネで総司令部に配属された有力貴族の子弟たち・お荷物)。クトゥーゾフは、不可解なほど連敗を重ねるオーストリア軍への合流を不利とみなしているので、合流をわざと遅らせようとする。しかし、オーストリアはクトゥーゾフの想像を超えて弱く、そうこうしているうちに、マック将軍(オーストリア)敗北の報が入る。ロシア軍は、戦力の3分の1を失いながら、なんとかフランスのモルチエ師団を追い払った。その勝利の報をアンドレイがブルノのオーストリア皇帝に伝えた直後、オーストリアの首都ウィーンが陥落してしまう。窮地に立たされたクトゥーゾフは、撤退のための捨て石としてバグラチオン隊を先行させて、フランス軍を足止めさせ、ミュラーからの偽りの休戦提案を逆に利用して、時間をかせごうとした。結果的に、この作戦はうまくいった。

 

 

前日の作戦会議

 アウステルリッツの会戦を前に消極論を唱えて、大本営のメンバーから総すかんを食らっている。会戦の前日、アンドレイに明日の戦いについて問われると、「私が思うに、わが軍は戦いに負ける。私はこのことをトルストイ伯爵に言って、陛下に伝えるように頼んだ。ところがどうだ、相手はこう答えたんだ――『いや、私は今ライスとカツレツにかかりきりだから、戦争の方は君に任せたよ』いやはや……それが私への返事だった!」。作戦会議では、ワイローターの作戦に不満で、「いかにも人間らしい欲求である『眠気』をぜひとも満足させねばならなかったのだ」と、寝てしまった。

 このような描写によって、歴史の授業で習うようなカリスマ性のある人物の「意志」が戦争を遂行するわけではない、そんなに単純なものではないと、トルストイは言いたいのだった。

 

 

アウステルリッツ

 アウステルリッツ会戦では第四軍団を率いて、プラッツェン高地にとどまっていた。第一~第三軍団はすでに進軍を始めていたが、クトゥーゾフは憔悴し、いら立っている様子だった。「敵に向かっていくときに、このような村道の隘路で隊列を伸び切らせてはいかん」と歩兵部隊に忠告し、作戦計画に従っていると答える将軍に、「こちらが命じることを実行してくれたまえ」と言った。そして、アンドレイに第三師団が村を通過したか確かめるように指示し、「散兵を立てているか訊いてくれ」と命令した(立てていなかった……)。要するに、味方があまりにも戦争を知らないので、とてもあのナポレオン相手に戦えるとは思えないので消極策を唱えていたのだった。

 

 

 なかなか動き出さないクトゥーゾフ隊にしびれを切らし、アレクサンドル皇帝とフランツ皇帝がみずからやって来た。クトゥーゾフは、まだ全軍がそろっていないから進軍していないと答えたが、アレクサンドル皇帝は何も返答しない。1分の沈黙ののち、「しかしながら、ご命令とあれば、陛下」と、死を覚悟して出撃した。すると、すぐさまフランス軍が500歩の地点に現れた。アンドレイが、「アプシェロン連隊を止めなくてはなりません。総司令官閣下!」と叫んだが、「ひゃあ、おしまいだ!」と他愛ない驚きの叫びが上がった。逃げる兵士を止めようとしても、敗走は止まらず、クトゥーゾフの随員は四人しか残っていない。敵軍も、クトゥーゾフに気づいて、一斉射撃をかけた。

 

 

戦後

 なんとか生き残ったようだ。戦後、クトゥーゾフの無能さが、敗因のひとつとして語られた。というより、タブーとして話題として出すことすら敬遠されている感じだ。クトゥーゾフは左遷された。クトゥーゾフは、アンドレイの戦死に関して、「ご子息は小生の目の前で、軍紀を手にしたまま連隊の先頭で倒れられましたが、それは御父君のそして祖国の名に恥じない、英雄的な姿でした」と、ボルコンスキー老伯爵に手紙を送った。

 

ボロジノ会戦以降

 

再び総司令官に

 1812年、モルダヴィアの総司令官を拝命した。7月29日に公爵に叙せられ、事実上の引退宣告かと思われたが、8月8日に、重臣会議で、最高司令官に任命された。閲兵式を終えたところでアンドレイに出会う。父のボルコンスキー老公爵の死を報告すると、驚きで目を見張って、「わしはお父上を愛していたし、尊敬していたのだ」と目に涙をためて言った。7年前はアンドレイの死を老公爵に伝え、今度は老公爵の死をアンドレイを通して知らされたのだった。当直将軍からの進言を聞いていないのは、相変わらずだ。「ペチカ行きだ!」「なるほど、ドイツ人のこまやかさだ!」。

 

人間はいない

 アンドレイの話をくわしく聞いて、「どこまで落ちてしまったのか!」と嘆き、アンドレイに自分のそばにいてほしいと言ったが、アンドレイは連隊に戻ると答える。「残念だな、きみはわしに必要な人間なのだが。だがきみが正しい、きみが正しいよ。われわれが人間を必要とするのは、ここではない。意見を述べる者はいつもわんさといるが、人間はいない。りっぱな意見を吐く連中がみな、きみのように連隊に勤めていたら、連隊はこんなざまにはならなかったろうよ。わしはアウステルリッツ以来きみをおぼえとる……おぼえとるよ、おぼえとるよ、軍旗を持った姿をな」と言い、アンドレイもそのことをうれしく思った。そして、あらためて、「忍耐と時」の重要性を話し、トルコでの話を挙げて、カメーンスキーはあせって突撃して戦死したが、大事なのは攻撃ではないと言った。

 

不本意な会戦

 8月24日はシュヴァルジノ堡塁付近で戦闘が行われる。翌日は一発の弾丸も放たれなかった。そして、26日にボロジノ会戦となった。前日の作戦会議で、相変わらずほとんど話を聞いていない様子だった。戦争がシミュレーション通りにいかないことは、アウステルリッツでの参謀長ワイローターが示した通りだった。

 また、クトゥーゾフにとってもナポレオンにとっても、ボロジノ会戦は意志をうばわれた不条理な行動だった。クトゥーゾフは、ここで会戦が行われるとは思ってもいなかった。

 バグラチオン負傷の知らせを聞き、ヴィルテンベルヒ公に第一軍の指揮をたのむが、まったく頼りにならない。すぐさま援軍要求をしてきたので、ドーフトゥロフと交代させる。ミュラー捕縛の知らせが届いたが、喜ぶのは待った方がよさそうだと、落ち着いている。

 昼食時に、バルクライの左翼から敗戦の報を受けるが、信じなかった。ラエスキーから、フランス軍は突撃の気力を失っていると聞かされ、カイサロフに、明日の攻撃を各陣地に伝えさせた。クトゥーゾフはボロジノの会戦に勝ったと思い込んでいたが、軍の半数が失われたという未曽有の損害についての報告が続々と入って来た。そのため、新たな会戦は物理的に不可能だった。

 

モスクワ放棄

 モスクワ防衛を主張するベニグセンと反目する。モスクワ放棄が自分の指揮権を返上することと同義であることが、クトゥーゾフを苦しめていた。「彼は権力を愛し、権力に慣れていただけでなく、ロシアを救うことが自分の天命なのだ、だからこそ、皇帝の意に反し、国民の意志によって、総司令官に選ばれたのだと、固く信じていた」。

 モスクワ放棄について、「この問題を決定した事態は、いつ起こったのだ、そしてそれはだれの罪なのだ?」と、考えていた。朝起きると、はるか遠方の伏兵地点で待機しているはずの近衛騎兵の姿が見えたので、手違いが生じたことを理解した。士官を呼ぶと攻撃命令を受けていないと言うので、唖然とする。「なんたる悪党どもだ、なんたるざまか? 銃殺だ! 破廉恥漢め!」。

 その後、退却するフランス軍への突撃を許さず、百歩前進するごとに45分の休止を取らせた。ドーロホフからの報告で、フォミンスコエでブルシエの師団が単独行動をとっており、殲滅が容易であることがわかるが、総攻撃の必要は認めなかった。ドーフトゥロフの小部隊だけが派遣された。モスクワを通過してリャザン街道への後退を命じたクトゥーゾフの功績は、一人だけこの戦局の意義を理解していたことにあったと、トルストイは考えている。

 

忍耐と時間

 夜はよく眠れない。かわりに、昼間にうとうとする。「われわれが攻撃に出れば、損をするだけだということが、彼らにもわかるはずだ。忍耐と時間、これがわしの軍神なのだ!」。そして、ついにナポレオンがモスクワを出たという報告を受けた。ロシア軍は、退路を遮断して、捕捉殲滅しようと気負ったが、クトゥーゾフだけが、攻撃を抑えるのに全力を挙げた。しかし、クトゥーゾフは、フランス軍を捕捉殲滅するという軍の熱望を抑えることができなかった。そのため、クラースノエでナポレオン本隊衝突することになった。1812年と13年に、クトゥーゾフはクラースノエとベレジナの戦いで、その誤りによってフランス軍に対する完全勝利という栄誉を奪ったと非難された。

 

 ――クトゥーゾフは、活動の初めから終わりまで、その行動によっても、言葉によっても、一度として自分を裏切ることなく、自己犠牲と、現状の中に事件の未来の意義を洞察することとの、史上にまれな規範を示した人物である。

 

トルストイの歴史観

 トルストイは、クトゥーゾフがなぜ英雄ではなく、「無性格な歴史の道具にすぎぬナポレオン」が英雄なのかと問う。クトゥーゾフは、ごく平凡な人間に見えたし、ごく普通の平凡なことしか語らなかった。「常にこの老人は、その人生経験によって、考えと、その表現をつとめる言葉とは、人々を動かす原動力ではないという確信に達していた」。自分の言葉を無視していた人間は、自分の考えを述べても理解されないという苦い確信があった。そして、彼ひとりだけが、「ボロジノ会戦は勝利だ」と死ぬまで確信していた。「進展してゆく現象の意義を洞察するこの非凡な力の源泉は、彼がその純粋さと力をいささかもそこなわぬ形で自分の中にもっていた民族的感情にあるのである」。

 

最後の戦い

 11月5日、クラースノエの戦闘の最初の日に、クラースノエからドーブロエに移った。途中、生肉のかたまりを指で引き裂いていている腫物だらけの兵士が、毒々しい表情でクトゥーゾフをにらんだ。ロシア兵とフランス兵が肩をたたきながら笑顔で話しかけていた。「諸君に感謝する!」と言って、数千の兵が「ウラー!」を響かせた。クトゥーゾフは、ごく普通の老人の顔にもどり、あとすこし辛抱してくれと伝えた。フランス軍の捕虜に対して、「彼らが強かった間は、われわれは容赦しなかったが、いまは憐れんでやるのもわるいことではない。彼らだとて人間なのだ。そうだな、諸君」。そして、「いったい誰があんなやつらというのか?当然の報いだ、うむ……まったく……あほうな……」と顔を上げて、戦争の全期を通してはじめて駆け足で馬を飛ばして、ウラーを絶叫する兵士の群れから離れた。厳粛な勝利感に敵に対するあわれみと自分の正しさとが溶け合った感情は、兵士の心の中にあるものだった。

 

引退

 コンスタンチン・パーヴロヴィチ大公の伝言を受け取る、自分の時代が終わり、権力が自分の手から離れたことを理解した。ヴィルナに入城して、生涯、二度目のヴィルナ総督となり、平和な生活に身を沈めた。皇帝の到着を待ちながら、だらけた生活を送った。皇帝は、クラースノエとベレジナで作戦を誤ったことへの不満を述べた。皇帝にモスクワ放棄を報告しなかったので、不信感を持たれる結果になっていた。その後、ミショー大佐を使者として送り、皇帝を安心させ、勲一等ゲオルギイ勲章を授与されたが、「老人が誤りをおかし、何の役にも立たない人間であることは、すべての人々が知っていた」。

 

 クトゥーゾフは、「ひとつづきにおこなわれようとしている戦争の意味を理解できなかった」。皇帝は、「諸君が救ったのはロシア一国ではない、諸君はヨーロッパを救ったのだ」と言ったが、クトゥーゾフは、戦争の継続はロシアの住民を困窮させるだけだと言った。その結果、クトゥーゾフは実質的な力を完全に骨抜きにされた。クトゥーゾフは、ロシアの救済のために必要な人物だったが、諸民族の東から西への移動と諸民族間の国境復活のために必要な人物はアレクサンドル1世だった。クトゥーゾフは、国民戦争(1812年)の代表者として、死ぬこと以外、何も残されていなかった。1813年、彼は死んだ。