【神武天皇】 
 神代と人代を結ぶ、伝説上の初代天皇とされるのが、神武天皇「じんむてんのう」です。神武天皇は、日本建国の祖とされています。神武天皇は、4人兄弟の末っ子として生まれ、兄たちと共に育ちました。その兄たちとは「彦五瀬命」「稲飯命」「三毛入野命」の三人です。神武天皇は、妃の吾平津姫との間に手研耳命「タギシシミ」という息子をもうけました。神武天皇の祖父は、穀霊神である邇邇芸命です。そのため、神武天皇も、穀霊神だとされています。

 
【神武東征】 
 神武天皇の出身地は、日向「宮崎県」です。しかし、ある時、東に美しい土地があると聞かされたので、そこで天下を治めようと考えました。神武天皇が、兄や子たちと共に東へ進軍を開始したのは、45歳の時です。それを「神武東征」と言います。 船で東に進み、速吸門「はやすいのと」という所に来た時、瀬の流れが速すぎて、前に進めなくなりました。困っている神武天皇の前に現れたのが「槁根津日子」と言う者です。槁根津日子が、海路に詳しいと言うので、水先案内人を頼みました。神武天皇たちが、無事に海路を進むことができたのは、槁根津日子のおかげだとされています。その功績によって、槁根津日子は、倭国造に任じられました。

 【大和】 
 神武天皇が、大和国「奈良県」に進行した時、その行く手を阻んだのが、その地を支配する長髄彦「ナガスネヒコ」です。長髄彦との戦いで、長兄の五瀬命「イツセノミコト」が、流れ矢に当たって負傷しました。神武天皇は、太陽神である天照大神の子孫です。その自分たちが、太陽に背を向けて戦っているのは、天の意志に逆らうことだと考えました。そこで、神武天皇は、熊野「和歌山県」から迂回するという作戦をとることにします。しかし、和歌山では、矢傷が悪化して、五瀬命が亡くなりました。 

【熊野】 
 熊野では、大嵐に襲われたので、稲飯命と三毛入野命が「私の母は海神である」と言って、海に入り高波を静めました。そのおかげで、熊野に上陸することが出来たとされています。しかし、今度は、大熊に変身した土地の神の毒気に侵され、兵士たちもろとも失神してしまいました。その時、天照大神から、神武天皇を助けるように命じられたのが、武甕槌という神様です。武甕槌は、熊野の土豪、高倉下という人物の夢に現れて、甕布都神「みかふつのかみ」という神剣を授けました。その剣を受け取った神武天皇は、覚醒して邪気を払い、荒ぶる化熊を切り倒したとされています。

 
【八咫烏】
 神武天皇の一行は、途中で道が分からなくなったので、天照大神は、案内役として八咫烏を遣わしました。八咫烏は、太陽の化身で、三本足の烏だとされています。三本の足は、それぞれ「自然」「人間」「神」の象徴です。神武天皇は、熊野から八咫烏「やたがらす」に導かれて,大和の宇陀に入りました。そのことから、八咫烏は「道案内」「導きの神」とされています。宇陀にも、神武天皇に対抗する者がいました。兄猾「えうかし」弟猾「おとうかし」という兄弟です。弟猾は、すぐに降伏しました。しかし、兄猾の方は、抵抗を続け、罠を使って、神武天皇を暗殺しようとします。しかし、弟猾が、それを密告したので、兄猾は、自分で仕掛けた罠にかかって死にました。


【磐余の邑】 
 神武天皇が「磐余の邑」に入った時、敵に包囲されました。包囲したのは、兄磯城「えしき」、弟磯城「おとしき」という兄弟と八十梟帥軍です。磐余の邑という場所は、険しい地形だったので、道が狭く、逃げ場がなかったとされています。そこで神武天皇は、先に八十梟帥を倒し、それから、弟磯城を服従させました。残った兄磯城は、弟の説得にもかかわらず、抵抗をやめなかったので、神武天皇は、兄磯城を討伐することにします。それを命じられたのが、家臣の道臣命という者です。道臣命は、偽りの宴会を開き、そこで兄磯城を誅殺しました。 


 
【金鵄】
 神武天皇は、各地の土着勢力を破って行きました。それでもなかなか勝つことが出来なかったのが、最大の天敵である長髄彦です。長髄彦は、もともと主君のために戦っていました。その主君とは、饒速日命「ニギハヤヒノミコト」です。饒速日命は、物部氏の祖神とされています。苦戦している神武天皇を助けたのが、金鵄「きんし」と呼ばれる黄金の鳶です。金鵄は、神武天皇の弓に止まり、光を放って、長髄彦の目を眩ませ敗走させました。敗戦しても、長髄彦は、なかなか降伏しようとしません。しかし、長髄彦より先に降伏したのが、主君である饒速日命です。饒速日命は、家臣である長髄彦を処刑しました。