【栄西】
 日本臨済宗の開祖は、鎌倉初期に活躍した栄西「えいさい」です。栄西は、神職の子として岡山県で生まれ、比叡山で天台密教を学びました。その中でもエリートだったとされています。その後、平安末期に宋に渡り、臨済宗を学びました。臨済宗の開祖は「喝」という掛け声で有名な「義玄」です。義玄は、唐の時代の人物で、その厳しさから「臨済将軍」と呼ばれていました。

 臨済宗では、文字で書かれたものを重視しなかったので、根本経典というものがありません。そのため、あまり念仏を唱えませんでした。ただし、般若心経だけは、よく唱和されています。臨済宗の大本山は、京都の「妙心寺」です。妙心寺は「西の御所」と呼ばれています。臨済宗は、大寺院がそれぞれで一派をなしているのが特徴です。例えば、鎌倉市の円覚寺は「円覚寺派」に属しています。

【禅宗】
 臨済宗は、日本で最初に独立した禅の宗派です。禅宗は、もともとインドで誕生し、そこから中国に伝わりました。臨済宗では、経典ではなく「坐禅」や「公案」に一心に取り組みます。それらによって悟ることが、出来ると考えたからです。公案は、禅問答とも言います。禅問答とは、悟りを開くために行う、問いと答えのやり取りのことです。ただし、通常は、話の噛み合わない、言葉のやり取りという意味で使われています。公案は、師が問題を出し、弟子がそれに答えるという形式です。問題を考えるという、その思考過程において、悟りを得るとされています。悟りに至るには「習慣」「常識」「利害関係」「損得勘定」などを捨てる必要がありました。坐禅もまた、悟りに近づくための修行の一つです。臨済宗の坐禅は「看話禅」と言います。看話禅「かんなぜん」は、師と対面して、坐禅をすることです。師から出された公案を解くので「公案禅」とも呼ばれています。


【興禅護国論】
 臨済宗は、支配者層であった武士を中心に広まりました。その教えが、武士の気質に受け入れられたからです。臨済宗は、北条政子、源頼家など、当時の鎌倉幕府の権力者たちの支持を得ました。その源頼家が建てたのが「風神雷神図」で有名な京都の建仁寺「けんにじ」です。

 栄西は、意外にも地位や名声を望みました。だだし、それは自分のためではありません。禅の教えを広め、人々を救うための手段として必要だと考えたからです。栄西は、そう言う意味では現実主義的な人物でした。また、政治的な才能もあったとされています。

栄西は、すぐれた人物を育成することで、国を護ることが出来るとしました。それを説いたのが「興禅護国論」という書物です。興禅護国論「こうぜんごこくろん」では、禅を盛んにすることが、国を守ることだと説かれています。栄西が、禅の基礎としたのが「戒律」です。戒律を守ることは、あくまで邪悪を防ぐためであり、慈悲の心は、常に持つべきだとしています。

【禅宗文化】
 臨済宗は、禅宗文化の発展に寄与しました。禅宗文化とは「書道」「茶道」「水墨画」「茶道」などのことです。それらは、日本の文化に大きな影響を与えました。建築物では「金閣寺」や「銀閣寺」が有名です。水墨画で有名な雪舟も、子供の頃は、臨済宗のお寺で修行をしていました。有名な涙で描いた鼠の絵は、その頃のエピソードです。

 栄西は、お茶を広めた人物として「茶祖」と呼ばれています。お茶について書いたのが「喫茶養生記」です。栄西は、その喫茶養生記を源実朝に献上しました。喫茶養生記は「茶は養生の仙薬なり」で始まる、茶の薬効について書かれた本です。薬効だけでなく「栽培」「適地」「製法」まで細かく書かれています。茶は、はじめ上流階級の間で、もてはやされ、室町時代には、茶の湯文化として発展しました。