「ありのままを受け入れる」という事と、
「ありのままで良い」という事は、
一見同じように見えて全く違う事です。
前者には厳父の様な真の愛情と慈悲があります。
見捨てることなく受け止め、見守るけれども、
人を傷つける様な未熟さや弱さを、
「そのままで良い」とは受け入れてはくれません。
時には苦労が待ち受けていると分かっていても、
自分が憎まれたり嫌われると分かっていても、
成長のためには敢えて厳しい世界に叩き出したり、
叱ることもあるでしょう。
そのもとには必ず成長があります。
一方、後者には一見優しさがあるようでいて、
甘やかすだけの親馬鹿の愛です。
耳触りのよい言葉や誤魔化しを、
何て多くの人が愛情と勘違いしていることか。
「金なら出してやるから、苦労なんかするな」なんて、
偽りの愛情です。
そこに成長はなく、幼稚な正義感と欺瞞に満ちた、
冷たく傲慢な心が育つだけでしょう。
宗教もそうです。
建物の壮麗さ、壮大さではその宗教の力は計れません。
音楽の壮麗さでその宗教の真の姿は計れません。
雰囲気の素晴らしさや荘厳な美しさで計る事はできません。
宗教はファッションや好みの問題ではないからです。
まして武力でなんかで計る事はできません。
それでは何をもって計るのか?
その宗教が一人の人間を蘇生させ、成長させ、
心からの喜びと温かさ、エネルギーを湧き立たせられるかどうかです。
自身の持っている力を発揮できるようになるかどうかです。
それが出来るのが真の宗教だと思います。
生まれてきた喜びを真に感じることはないのに、
形式や表向きばかりを整え、何となく心地よくさせ、
良い人間の様に思わせてくれ、酔わせてくれるものではなく、
人生の酔いから醒ましてくれるのが真の宗教だと思います。
そして真の宗教とは俗世からかけ離れたり、関わらないものではなく、
俗世=現実社会の中で、人間の中で活かされていくものです。
現実世界を離れて(あるいはいても)、人とも深い関わりを持たずに、
雰囲気に酔って、自らの未熟さを誤魔化したり、
高尚さを気取るためのものではありません。
結婚式やお葬式などのためにあるのでもありません。
冷たさや痛みや渇きを心地よく誤魔化すだけで、
その人に真の温かさ、喜び、力を与えないならば、
その宗教はまるで麻薬のようではありませんか。
その人に本当の自分の人生を生きさせないまま、
廃人のように死んでいかせるのと同じではありませんか。
それでは「生きた」って言えないじゃないですか。
相手の成長・・・と言うよりは、
本当はその人が心の奥に持っている力を発揮する事を願わないなら、
それは真実の愛ではないでしょう。
その人の成長を諦め、期待もせず、怒りもせず、
表向きは機嫌損ねないように飴玉しゃぶらせとくのは、偽物の愛です。
それが家族であっても、恋人であっても、友人であっても・・・。
私はそう思います。