3/29(土)午後、團伊玖磨/オペラ「夕鶴」を観に渋谷のBunkamuraオーチャードホールへ
。








Bunkamuraを訪れたのは、確か尾高忠明&東京フィルのシェーンベルク/グレの歌以来。



土曜日の午後のBunkamura、演目が「夕鶴」、主役の「つう」を歌うのが佐藤しのぶ(因みに指揮は夫の現田茂夫、オーケストラは東京フィルのメンバー)、衣装が森英恵そして美術が千住博とあってか、チケットは完売。





さて團伊玖磨の「夕鶴」、日本人作曲家の筆によるオペラの代表格としてのその存在はかねてより知っていましたが、実際に観聴きしたのは、木下順二の原作の戯曲・演劇も含め、実は今回が初めてです。

慣れ親しんでいる「鶴の恩返し」では、与ひょうが自ら物慾にのめり込んでいくのに対し、この「夕鶴」では…。
愚直な迄の純朴さ故に、傷付いた鶴を助け、その後現れたつうと相思相愛で結ばれ、つうの織った布の美しさに純粋に魅せられていたのが、その様子を傍らで見ていて慾心を起こした運ずと惣どに巧みにそそのかされ、つうを想い続けながらも知らず知らずの内に物慾の世界にも足を絡め取られていく与ひょうと、その変化に哀しみつつも与ひょうへの想い故に再び機を織るつう…。そのような人物造型が、物語により一層の深さと普遍性とをもたらしているように感じられました。
團伊玖磨ならではの、日本語の響き・抑揚を大切にし平明ながらもあくまで格調高い音楽…。
単なる西欧の真似ごとではない、真に世界に誇れる日本のオペラの先駆けと云える作品なのだと思いました。
佐藤しのぶ(意外にもつうを演じるのは今回の一連の公演が初めてだとか)と現田茂夫&東京フィルの清冽な表現も素敵でしたが、惣ど役のヴェテラン高橋啓三の悪役としての存在感が、更につうと与ひょうの純粋さと哀しみを際立たせる結果に繋がっていました(プログラムによれば高橋本人もそうありたいと考え臨んだようだけれど)。
市川右近の演出、千住博の美術、成瀬一裕の照明もまた、奇をてらわず抑制されたものでありながら、それ故にか効果を上げていたと思いますが、森英恵の衣装の内の村童達のもののみが違和感を覚えてしまいました。
それと…、土曜日の午後のBunkamura、佐藤しのぶ、森英恵、千住博に釣られて来たと覚しきオバタリアン(今や殆ど死語と化しているけれど)が客層の大半を占めていて、その姦しさに辟易させられました。
とりわけ第2幕の序奏が始まって間もなく、背後のオバサンが「…鶴がどうやって消えていくのかが楽しみなのよねぇ」と喋り出した時は、思わず振り返って睨んでしまいました。
因みにそのオバサン、カーテンコールの最中「カーテンコールの時は写真撮っていいんだっけ…?」(…開演前と休憩終了時にあれ程「上演中の撮影・録音はカーテンコールの間も含め著作権・肖像権上固くお断りいたします」とアナウンスしていたじゃないか)。
腹立たしいと云えばもう一つ…。
ハチ公広場を通る度に苛々させられるのですが、パネルで区切られたそれなりの広さの喫煙区画が設けてあるにも関わらず、

何故そこからはみ出した場所で平然と煙草を吸っている輩が多いのか…。
その為にどれだけ非喫煙者が不快な思いをさせられているか、もっと考えてもらいたい!
。








Bunkamuraを訪れたのは、確か尾高忠明&東京フィルのシェーンベルク/グレの歌以来。



土曜日の午後のBunkamura、演目が「夕鶴」、主役の「つう」を歌うのが佐藤しのぶ(因みに指揮は夫の現田茂夫、オーケストラは東京フィルのメンバー)、衣装が森英恵そして美術が千住博とあってか、チケットは完売。





さて團伊玖磨の「夕鶴」、日本人作曲家の筆によるオペラの代表格としてのその存在はかねてより知っていましたが、実際に観聴きしたのは、木下順二の原作の戯曲・演劇も含め、実は今回が初めてです。

慣れ親しんでいる「鶴の恩返し」では、与ひょうが自ら物慾にのめり込んでいくのに対し、この「夕鶴」では…。
愚直な迄の純朴さ故に、傷付いた鶴を助け、その後現れたつうと相思相愛で結ばれ、つうの織った布の美しさに純粋に魅せられていたのが、その様子を傍らで見ていて慾心を起こした運ずと惣どに巧みにそそのかされ、つうを想い続けながらも知らず知らずの内に物慾の世界にも足を絡め取られていく与ひょうと、その変化に哀しみつつも与ひょうへの想い故に再び機を織るつう…。そのような人物造型が、物語により一層の深さと普遍性とをもたらしているように感じられました。
團伊玖磨ならではの、日本語の響き・抑揚を大切にし平明ながらもあくまで格調高い音楽…。
単なる西欧の真似ごとではない、真に世界に誇れる日本のオペラの先駆けと云える作品なのだと思いました。
佐藤しのぶ(意外にもつうを演じるのは今回の一連の公演が初めてだとか)と現田茂夫&東京フィルの清冽な表現も素敵でしたが、惣ど役のヴェテラン高橋啓三の悪役としての存在感が、更につうと与ひょうの純粋さと哀しみを際立たせる結果に繋がっていました(プログラムによれば高橋本人もそうありたいと考え臨んだようだけれど)。
市川右近の演出、千住博の美術、成瀬一裕の照明もまた、奇をてらわず抑制されたものでありながら、それ故にか効果を上げていたと思いますが、森英恵の衣装の内の村童達のもののみが違和感を覚えてしまいました。
それと…、土曜日の午後のBunkamura、佐藤しのぶ、森英恵、千住博に釣られて来たと覚しきオバタリアン(今や殆ど死語と化しているけれど)が客層の大半を占めていて、その姦しさに辟易させられました。
とりわけ第2幕の序奏が始まって間もなく、背後のオバサンが「…鶴がどうやって消えていくのかが楽しみなのよねぇ」と喋り出した時は、思わず振り返って睨んでしまいました。
因みにそのオバサン、カーテンコールの最中「カーテンコールの時は写真撮っていいんだっけ…?」(…開演前と休憩終了時にあれ程「上演中の撮影・録音はカーテンコールの間も含め著作権・肖像権上固くお断りいたします」とアナウンスしていたじゃないか)。
腹立たしいと云えばもう一つ…。
ハチ公広場を通る度に苛々させられるのですが、パネルで区切られたそれなりの広さの喫煙区画が設けてあるにも関わらず、

何故そこからはみ出した場所で平然と煙草を吸っている輩が多いのか…。
その為にどれだけ非喫煙者が不快な思いをさせられているか、もっと考えてもらいたい!