※ 注:下記内容は2011年当時知人に宛てたメールを基に再編集したものです。

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1/22(土)夜サントリーホールで、読売日響正指揮者下野竜也の指揮による第500回記念定期公演を聴きました。

「第500回」と聞いて少々意外に感じました。N響の1,600回超(新響・日響時代からの通算だけれど)には遠く及ばないにせよ、読響ならもっと回数を重ねているものとばかり思っていたので…。

尤も私は単に第500回定期ということで行った訳ではなく、後半の生誕200年のリスト/ファウスト交響曲が目当てでした。
同曲は私が中2の頃、サヴァリッシュがN響との特別演奏会で採り上げていたのをTVで視た筈なのですが、私は専ら前半のポリーニをソリストに迎えてのブラームス/ピアノ協奏曲第2番にのみ関心が傾き、その時のファウスト交響曲については全く印象に残っていません(或いはチャンネルを変えるか消してしまったのかも:ただ仮に視ていたとしても果たして当時の精神年齢で理解できたかどうか疑問だけれど)。
アニヴァーサリーイヤーを契機に、改めてこの作品に向き合ってみようと足を運びました。

ホールに着いてみると、開演20分前から、この公演の為に新作を委嘱された池辺晋一郎と下野竜也とのプレトークがあり、池辺サンが読響創立当時の思い出等について、時に得意の駄洒落をも交えつつ語っていました。

リストのファウスト交響曲作曲の直接的動機は、1857年の独ワイマールに於けるゲーテ、シラー、ヴィーラントの3人の記念碑の除幕式の為だったそうですが、若き日にベルリオーズから貰ったゲーテの戯曲に感銘を受けたのが遠因だとか。
第1楽章はファウスト、第2楽章はグレートヒェン、第3楽章はメフィストフェレスの心理描写で、終結部では男声合唱・テノール独唱にオルガン迄動員してファウストの魂の救済を暗示する大規模な作品でした。
第1楽章冒頭の調性の不安定さ等はワーグナー/トリスタンとイゾルデやマーラー/交響曲第10番(未完)第1楽章に通じるものも想起させられ興味深いものがありましたが、恥ずかしながら第1楽章終結辺りから睡魔との闘いになってしまい、第2楽章は半ば朦朧とした意識の中で聴く羽目に陥ってしまいました。

下野竜也の演奏を聴いたのは、昨秋のサイトウ・キネン・フェスティバルでの小沢征爾の代役以来4カ月ぶり4回目ですが、初めて聴いた2002年の大阪フィル新春名曲コンサート(前年末に逝去した朝比奈隆の代役)の頃に比べると、堅実な造形力に更に表現に於ける積極性が加わり、着実に深化を遂げているように感じました。昨今のプログラミングにも彼の意欲が現れているような気がします。
今回も、前半の池辺作品の世界初演も含め好演だったと思うのですが(終演後の聴衆の拍手喝采も盛大だった)、惜しむらくは500回記念定期と銘打ったにも拘わらず、曲目の故か客席は7割程度しか埋まっておらず、私の座った列はほんの数人しか居ませんでした。

終演後20:15から、今度は作曲家の西村朗にジャーナリストの江川紹子、慶大法学部准教授(政治思想史)兼音楽評論家の片山杜秀(私はこの方をそれ迄全く知らなかったのだが)、下野竜也によるアフタートーク「今、オーケストラに何を求めるか?」が開催されたので、自宅周辺の路線バスの終発の時間を気にしつつも居残り聞きました(しかし図らずも公演の前後で池辺・西村の「N響アワー」新旧司会者が登壇するとは)。
テーマの性格上、どうしてもオーケストラの運営問題といった現実的かつ深刻な話に傾きがちで、パネリストの「日本で国営のオーケストラと云うと、強いて挙げれば国立大学法人移行前の藝大オーケストラしか無かった」「地方自治体運営のオーケストラも都響と大阪センチュリー響位しかないが、どちらも運営が安定している訳ではなく、とりわけ大阪センチュリー響は存亡の危機に直面している」「日本の政治家ももっと文化助成を真摯に考えてもらいたい」等々の発言に、司会の読響理事長も、幸い読響は読売新聞・日テレ・読売テレビからのバックアップを受けているが、それでも尚且つ文化庁の助成を仰がざるを得ない状況だと述べていました。