5/12(土)夜NHKホールで、尾高忠明の指揮によるN響第1727回定期公演(5月Aプロ定期初日)を聴きました。





1曲目はオネゲル/交響詩「夏の牧歌」。
所謂「フランス6人組」の1人、オネゲルの作品を生で聴いたのは、過去にはデュトワ&N響による交響曲第3番「典礼」位です。
うろ覚えなのですが、「典礼」は第二次世界大戦の犠牲者を悼みつつ、併せて云わば究極の人災である戦争を引き起こす人間の罪業を告発・糾弾する峻烈な性格をも帯びていたように記憶しているのに対し、今回の「夏の牧歌」は比較的初期の作品故か、標題の通り初夏の爽やかでフランス的な典雅さを湛えており、尾高氏の演奏もその辺りの特質を絶妙のバランス感覚で描き出していました。
2曲目はギャリック・オールソンの独奏によるショパン/ピアノ協奏曲第2番。
私は第2番を第1番以上に余り聴いてはいないのですが、第1楽章のオーケストラのみの提示部及び展開部冒頭が、これ程雄弁に響いた例を、少なくとも実演では他に知らず、第1番を含めてもデュトワ&N響のアルゲリッチやアヴデーエワとの協演位しか思い浮かぶものがありません。
と云っても、尾高氏が決して力ずくでオケを煽り立てていた訳ではなく、氏ならではの端正で誠実なアプローチを終始貫いていたのですが、その中から根元的な力強さを持った音楽が自然と湧き上がって来ていました。
オールソンのソロも素敵でしたが、とりわけ第2楽章は、オケの一音一音に意味の籠った好サポートとも相まって、単なるセンチメンタリズムではない真にロマンティックな世界が現出されていました。
後半は、デュリュフレ/レクィエム。
この作品は勿論、20世紀フランスの作曲家デュリュフレの作品自体今回初めて聴いたのですが、フォーレのそれと並ぶフランスの作曲家の筆によるレクィエムの代表作と評されるのも、さもありなんと思いました。と云ってもフォーレ作品よりかなり激しい側面も垣間見せるのですが、全体的に死者への限りない慰藉・慈しみに包まれた作品のように思われました。
伝統的なレクィエムに於いては必ず独立した章として置かれていた「ディエス・イレ」(怒りの日)を、フォーレ同様「リベラ・メ」の中に融け込ませていたのも、2度の世界大戦をはじめとする余りに苛烈な20世紀を経た人類にとっては相応しいような気もしました(デュリュフレ自身は決してフォーレの模倣ではないと事ある毎に否定していたそうだけれど)。
しかしそれにしても、近年の尾高氏の一層の内的深化・充実ぶりには刮目させられます。





1曲目はオネゲル/交響詩「夏の牧歌」。
所謂「フランス6人組」の1人、オネゲルの作品を生で聴いたのは、過去にはデュトワ&N響による交響曲第3番「典礼」位です。
うろ覚えなのですが、「典礼」は第二次世界大戦の犠牲者を悼みつつ、併せて云わば究極の人災である戦争を引き起こす人間の罪業を告発・糾弾する峻烈な性格をも帯びていたように記憶しているのに対し、今回の「夏の牧歌」は比較的初期の作品故か、標題の通り初夏の爽やかでフランス的な典雅さを湛えており、尾高氏の演奏もその辺りの特質を絶妙のバランス感覚で描き出していました。
2曲目はギャリック・オールソンの独奏によるショパン/ピアノ協奏曲第2番。
私は第2番を第1番以上に余り聴いてはいないのですが、第1楽章のオーケストラのみの提示部及び展開部冒頭が、これ程雄弁に響いた例を、少なくとも実演では他に知らず、第1番を含めてもデュトワ&N響のアルゲリッチやアヴデーエワとの協演位しか思い浮かぶものがありません。
と云っても、尾高氏が決して力ずくでオケを煽り立てていた訳ではなく、氏ならではの端正で誠実なアプローチを終始貫いていたのですが、その中から根元的な力強さを持った音楽が自然と湧き上がって来ていました。
オールソンのソロも素敵でしたが、とりわけ第2楽章は、オケの一音一音に意味の籠った好サポートとも相まって、単なるセンチメンタリズムではない真にロマンティックな世界が現出されていました。
後半は、デュリュフレ/レクィエム。
この作品は勿論、20世紀フランスの作曲家デュリュフレの作品自体今回初めて聴いたのですが、フォーレのそれと並ぶフランスの作曲家の筆によるレクィエムの代表作と評されるのも、さもありなんと思いました。と云ってもフォーレ作品よりかなり激しい側面も垣間見せるのですが、全体的に死者への限りない慰藉・慈しみに包まれた作品のように思われました。
伝統的なレクィエムに於いては必ず独立した章として置かれていた「ディエス・イレ」(怒りの日)を、フォーレ同様「リベラ・メ」の中に融け込ませていたのも、2度の世界大戦をはじめとする余りに苛烈な20世紀を経た人類にとっては相応しいような気もしました(デュリュフレ自身は決してフォーレの模倣ではないと事ある毎に否定していたそうだけれど)。
しかしそれにしても、近年の尾高氏の一層の内的深化・充実ぶりには刮目させられます。