大和朝廷が東北に於ける拠点とし、大伴家持等が赴任していた多賀城については、以前から関心がありましたが、今回直接の動機となったのが、今年元旦未明の奈良・東大寺に於ける復興支援物販展への多賀城市出展であったことは、さきに記した通りです。
多賀城跡へは、仙石線多賀城駅より東北本線国府多賀城駅の方がずっと近いとは、下調べの段階でも、また前夜の仙台駅での仙石線乗換通路でも眼にしていたところですが…、各種宿泊予約サイトで「国府多賀城駅」をキーワードに幾ら検索をかけても、多賀城駅周辺の、それも仙石線を挟んで国府多賀城駅とは反対側のホテルしか出て来ませんでした。
歩いて行くには少々距離があるし、と云ってタクシーを拾うのも勿体ないし…と思案している内に、多賀城市と七ヶ浜町がミヤコーバスに運行を委託しているコミュニティバス「ユーアイバス」の国府多賀城駅行が、偶々予約していたホテルの近くを通るらしいことが判り、これを利用することにしました。…但し土曜・休日の運行間隔は2時間に1本ですが。
GW後半3日目の5/5(土・祝)午前、ユーアイバスで国府多賀城駅北口へ出、案内所に寄ってから橋上駅舎の連絡通路を通り、まずは南口からすぐの、
「東北歴史博物館」へ。







建物の巨きさ、有史以前から近世に到る迄の常設展の充実ぶりに眼を見張りましたが、…少々疲れました。
館内のレストランで、古代米を使った「さくら米カレー」牛タン付で昼食とし、


隣接する江戸時代中期の古民家「今野家住宅」を見学してから、






多賀城の附属寺院として建立されたとされる「多賀城廃寺跡」へ。













それから再び駅北側へ戻り、

「館前遺跡」を経て、





多賀城南門跡及び「多賀城碑」へ。






まず今は土塁状と化し植栽でも補完されている築地塀跡、



次いで南門跡の復元された基壇、及びその前に延びる往時の幅に合わせ再現された路を興味津々で観ました。





多賀城碑は歌枕「壺の碑」として古くより語り伝えられてきたそうで、かの松尾芭蕉が「奥の細道」紀行中に立ち寄り、長い歳月を経る内に場所・行方が分からなくなってしまった歌枕があまたある中、この碑を眼の当たりにして感涙にむせんだとのことらしいのですが、

私はこの碑の来歴の方に興味を抱きました。
碑文の内容は、奈良時代初期の神亀元(724)年に大野東人が多賀城を創建し、これを同時代後期の天平宝字6(762)年に藤原恵美朝臣朝カリが修築した旨を記したもので、朝カリが自らの事蹟を残し伝えるべく建てたもののよう。


私は午前中博物館でこの碑のレプリカを観る迄、藤原朝カリなる人物はおろか碑そのものについても全くと云って良い程知らなかったのですが…。
「恵美」との称にもしやと思っていたら、果たして、碑の傍らに居らしたボランティアガイドの方に戴いた資料によると、朝カリは藤原仲麻呂の息子とのことでした。
叔母にも当たる光明皇太后の庇護の下で頭角を現し、孝謙上皇・淳仁天皇の時代に「恵美押勝」の名を下賜され正一位・太師(右大臣)の位に在って絶大な権力を掌握していた藤原仲麻呂、その息子であり自らも陸奥守兼鎮守将軍を経てその後参議に昇りつめることとなる身とあれば、その頃の朝カリもさぞかし我が世の春を謳歌していたことでしょう。
それから僅か2年後、ふとした齟齬の積み重なりから仲麻呂一族の運命の歯車があっという間に狂い出し、揃って非命に斃れることになろうとは、夢だに想像出来なかったのではないでしょうか。

碑を後に、今度は多賀城の中枢たる政庁の跡へ。


まず南門跡同様、往時の幅員が再現された路と石段の跡に眼を見張りました。








そして政庁中心部の規模にも…。









その後は附属官衙群の跡や復元石敷道路、荒脛巾(アラハバキ)神社等を観て廻り、

























国府多賀城駅北口に戻ってきたのは17時半頃。
「ユーアイバス」に乗り、多賀城駅前を経由してホテルへと戻りました。
多賀城跡へは、仙石線多賀城駅より東北本線国府多賀城駅の方がずっと近いとは、下調べの段階でも、また前夜の仙台駅での仙石線乗換通路でも眼にしていたところですが…、各種宿泊予約サイトで「国府多賀城駅」をキーワードに幾ら検索をかけても、多賀城駅周辺の、それも仙石線を挟んで国府多賀城駅とは反対側のホテルしか出て来ませんでした。
歩いて行くには少々距離があるし、と云ってタクシーを拾うのも勿体ないし…と思案している内に、多賀城市と七ヶ浜町がミヤコーバスに運行を委託しているコミュニティバス「ユーアイバス」の国府多賀城駅行が、偶々予約していたホテルの近くを通るらしいことが判り、これを利用することにしました。…但し土曜・休日の運行間隔は2時間に1本ですが。
GW後半3日目の5/5(土・祝)午前、ユーアイバスで国府多賀城駅北口へ出、案内所に寄ってから橋上駅舎の連絡通路を通り、まずは南口からすぐの、
「東北歴史博物館」へ。







建物の巨きさ、有史以前から近世に到る迄の常設展の充実ぶりに眼を見張りましたが、…少々疲れました。
館内のレストランで、古代米を使った「さくら米カレー」牛タン付で昼食とし、


隣接する江戸時代中期の古民家「今野家住宅」を見学してから、






多賀城の附属寺院として建立されたとされる「多賀城廃寺跡」へ。













それから再び駅北側へ戻り、

「館前遺跡」を経て、





多賀城南門跡及び「多賀城碑」へ。






まず今は土塁状と化し植栽でも補完されている築地塀跡、



次いで南門跡の復元された基壇、及びその前に延びる往時の幅に合わせ再現された路を興味津々で観ました。





多賀城碑は歌枕「壺の碑」として古くより語り伝えられてきたそうで、かの松尾芭蕉が「奥の細道」紀行中に立ち寄り、長い歳月を経る内に場所・行方が分からなくなってしまった歌枕があまたある中、この碑を眼の当たりにして感涙にむせんだとのことらしいのですが、

私はこの碑の来歴の方に興味を抱きました。
碑文の内容は、奈良時代初期の神亀元(724)年に大野東人が多賀城を創建し、これを同時代後期の天平宝字6(762)年に藤原恵美朝臣朝カリが修築した旨を記したもので、朝カリが自らの事蹟を残し伝えるべく建てたもののよう。


私は午前中博物館でこの碑のレプリカを観る迄、藤原朝カリなる人物はおろか碑そのものについても全くと云って良い程知らなかったのですが…。
「恵美」との称にもしやと思っていたら、果たして、碑の傍らに居らしたボランティアガイドの方に戴いた資料によると、朝カリは藤原仲麻呂の息子とのことでした。
叔母にも当たる光明皇太后の庇護の下で頭角を現し、孝謙上皇・淳仁天皇の時代に「恵美押勝」の名を下賜され正一位・太師(右大臣)の位に在って絶大な権力を掌握していた藤原仲麻呂、その息子であり自らも陸奥守兼鎮守将軍を経てその後参議に昇りつめることとなる身とあれば、その頃の朝カリもさぞかし我が世の春を謳歌していたことでしょう。
それから僅か2年後、ふとした齟齬の積み重なりから仲麻呂一族の運命の歯車があっという間に狂い出し、揃って非命に斃れることになろうとは、夢だに想像出来なかったのではないでしょうか。

碑を後に、今度は多賀城の中枢たる政庁の跡へ。


まず南門跡同様、往時の幅員が再現された路と石段の跡に眼を見張りました。








そして政庁中心部の規模にも…。









その後は附属官衙群の跡や復元石敷道路、荒脛巾(アラハバキ)神社等を観て廻り、

























国府多賀城駅北口に戻ってきたのは17時半頃。
「ユーアイバス」に乗り、多賀城駅前を経由してホテルへと戻りました。