今回も広島の有名な観光地 広島城 をご紹介します。
広島城の歴史をサラサラっと申し上げると、戦国時代、中国地方の覇者、毛利元就の孫 毛利輝元が現在の広島県安芸高田市の吉田にあった山城「郡山城」から、1599年(関ケ原の戦いの前年)現在の地に平城「広島城」を完成。関ケ原の戦いの総大将だった毛利輝元は、その責を問われ、山口の周防・長門へ減封、代わりに秀吉配下の福島正則が城主になる。しかし1617年、広島城を許可なく改修したといいがかりをつけられ、1619年に川中島・魚沼に転封。今度は徳川に近い浅野長晟が紀州和歌山藩から加増移封。幕末まで浅野氏が城主だった。その後は大本営が一時的に移ったり、軍事施設が置かれたり、天守閣が国宝になったりしましたが、1945年 原子爆弾により天守閣などの建物はことごとく倒壊・消失。戦後天守閣や二の丸の表御門などが再建されました。
詳細は広島城のHPでご覧ください。⇒⇒http://www.rijo-castle.jp/
数か月前、広島城の天守閣に入った時、ボランティアの人から下記のガイドマップを頂きました。今回はこのマップに記載されている場所を紹介してみたいと思います。マップがしわくちゃなのはご容赦・・・
正面の建物は、広島の放送局「中国放送(RCC)」、左の鳥居は広島城内にある広護国神社の鳥居です。
史跡 広島城跡
まずはマップの右上、福島正則が幕府からイチャモンつけられ壊した跡といわれる「崩れかけた石垣」から。
その左、刻印が多くみられる石垣というのがここ。どこかわかります?
たぶんこれだと思います。よく見ると他にも確かにこんなのがありました。
ここの石垣は、福島正則が城主だった時の石垣との事です。
私はお城の石垣が好きなんです。どこから石を運んだんだろうとか、どうやって積んだんだろうとか・・・ぼーっと眺めながら思ってしまいます。いろんな大きさの、いろんな形の石を上手に積んで、一つの頑丈な石垣となる。なんか人間社会に通じるなあとか。
この石垣でこんな穴を見つけました。なんだろう・・・
覗くとこんな感じ。奥から冷たい空気が出てきてました。
フラッシュで撮影。なんなんでしょうね。何か意味があると思うのですが不明。
次はマップ中心辺りに赤丸で囲んである被ばく樹木「クロガネモチ」。
次はクロガネモチの左隣、広島大本営跡。
『「広島大本営跡」 明治27年(1894年)8月に日清両国に戦端が開かれたのち、それまでに山陽鉄道が開通していたことや、宇品港(現在の広島港)を擁するといった諸条件により、同年9月 広島市に大本営が移されることとなり、広島城内にあった第五師団司令部の建物が明治天皇の行在所(あんざいしょ)とされ、ここに大本営が設けられた。明治天皇の広島滞在は同年9月15日から翌年の4月27日までの7か月あまりに及んだ。その後、建物は広島大本営跡として保存されたが、原爆により倒壊し今は基礎石のみ残されている。』
とあります。
原爆倒壊前の廣島大本営跡。以前ブログで紹介した「尋常小學 修身書」にも広島大本営について書かれてありました。
明治天皇がいらした7か月間は実質上、広島が日本の首都になったようです。
広島城(その2)につづきます。