【外野からの批判も擁護も愚の骨頂】:一番の問題は本人が説明もしないで逃亡中である件 | なべちゃりん的な考え方?? 宜しければ、戴いて下さい♪

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    私は杉田水脈議員の寄稿が物議を醸し出している件について、色んな人の持論と結び付いてどこまでも尾を引いていること自体に不毛さを感じます。


それについて一つ一つ整理しながら今回は書いていこうと思いました。


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まず、彼女の現在の所属政党である自民党においてLGBT関連では、まだ作業部会を立ち上げて間もない議論で、税金云々の話しはしていないと聞きます。ということは、その辺の基礎知識も欠如したまま、見切り発車的にLGBTについて取り上げて「支援の度が過ぎる」として表題を付けて論じたこと、これはまさに杉田氏がミスリードした形になったと言えるわけで、だから「支援の度が過ぎる」点を寄稿の中から読み取りたくてもどこにも何も書かれていないことがまず不毛の第一点。



そして、「生産性」というその言葉選びへの擁護と、言葉狩りの双方に嫌気がさしていて、それが不毛の第二点。


仮に「特別枠で税金使うな」という論旨なら「生産性」で線引きした二元論になるわけで、判断の基準が価値のある無し、上か下か、税金使うならこっちよりあっちという思考回路になる。


だから、良識や常識という規範に基づいた感性が判断の基準に働く一般の有権者からはドン引きされたこと、この点を擁護派は全く軽視していて独り善がりな「寄稿文の読み解き」が横行していること、果ては現役の国会議員の中からは「青年男子よ!勃起せよ!」なんていう表題の論説まで飛び出して来た… 。これが不毛の第三点。



そういう一般の反応の機微をわからない人、理解しようともしない姿勢の人が政権与党の政治家として大丈夫なのか? 

ただ言いたいことを優先させている無責任さを感じることが、不毛の第四点。




そして、政治家としてどうすべきなのか?
という結論さえ寄稿の中を探しても見当たらず、世間の騒わつきを余所に杉田氏ご本人は逃亡したまま出て来なくなったことも不毛で第五点。




さらには挙句、左翼やメディアに突かれる隙を与えてしまいその不始末を党に任せたまま、 安倍総理にまでコメントが求められる事態になったことが不毛の第六点。


この点、時系列の順序を間違って批判してる人が散見されるのも不毛で、きっかけを作ったのはあくまで寄稿した杉田氏側が先であり、彼女に批判的な意見を言うと「似非保守」というレッテルを貼っては「あんたは左翼の走狗だ」というように攻撃している人が居ます。



普段、結論ありきで偏向報道するマスコミを攻撃する割には、こういう時は杉田氏が日本の過去の名誉回復のために以前から様々な活動してきたことを通じて擁護の心情ありきになってしまい、それに沿わない人を攻撃しているという点で、私は左翼やマスコミを嗤えないと感じてしまう… 、それも不毛だなと感じる点として挙げられる。



こんな展開の中で彼女の寄稿内容を批判したり擁護することに、何の生産性があるのか?というバカバカしさ、不毛の第七点。







というわけで、私自身はただただ杉田氏の寄稿した行為自体に、無責任さを感じているたげです。



だから一貫して、御本人が出てきて寄稿の意図と内容の真意を説明して欲しい、と述べてきたわけです。


違うのかな?この感覚って?




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最後に、リンク先でミッツさんが「ただ、(LGBTの)当事者たちも常に冷静さを保ちつつ、あんまり『弱者至上主義』みたいなものに陥り過ぎないようにしていなきゃいけない」と仰っていることには、客観的な見方を失っていないなと納得している部分があります。



私自身は、LGBTの方々については性の対象として見ることはないのでその点では、「見て見ぬ振り」で良いんだろうと思う一方、あの人々がメディアで重用されていることで男なのに女目線、女なのに男目線という視点からのご意見を頂戴出来る機会があって、それは性的な仲裁目線として価値があるんだろうなとは思ってます。



そして、子供は作れなくても経済は動かしているんだし、何らかの活動を通じて創造的なこともなさっているはずですから、生産性云々というワードはやはり適切ではないだろう?と思ってますよ。経済用語として主に用いる「生産」という単語を子供を育むことに結び付けるのは、ちょっと普通の感覚ではないですよね。女性は子を生産する機械ではないのですから。。。



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実は、うちの夫婦も様々なことを経て、子供を授かることは諦めて私の母を面倒看ながら生きて行こうと決めたんですよね。


子供を授かることがなく生きていくことについて、嫁さんからは「ホントに申し訳ない… 」と思わせてしまっている部分がある。そういう彼女の気持ちにも「そうか、生産性という線引きに掛かると私は価値が低いということになるんだなぁ」と、本件では感じている面はあります。


そんなことはありません。



「君でなくてはダメなんだから一緒になったんだ。君の助けがなければ母の介護は僕の一身に振り掛かる苦しみで希望は持てなかった。こんな家に来てくれてありがとう。」



私には嫁さんの存在は掛け替えないんです。そういう人々にもあまり良い気分にさせないことをしておいて、説明せずに逃げ続ける人が果たして政治家として相応しいのでしょうか?