「森友学園」の問題に端を発してその幼稚園の教育方針の主要な部分に教育勅語があり、それについての賛否論争がやかましい感じがします。
教育勅語を賛美する側の主張には《12の徳目》の「どこが悪い?」として、一部SNSでは《逆12の徳目》なるもの… 、
⚫︎親孝行はするな
⚫︎夫婦・兄弟は仲悪く
⚫︎友達を助けず…
などを言って、
「それでいいわけないでしょ?」
という子供じみた反論があります。
それには非常に違和感があるもので、まずはこの論争の反対意見を知っておこうと思いました。
そこであるブログを拝見しました。
ここでは要点抽出にしましたので、リンクを貼って置きます。
…………………………………
【なぜ教育勅語を学校で教えてはいけないのか?】
……リンク先抽出……
《前略》
>>一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ
>>以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
という箇所を、明治神宮HPの「国民道徳協会訳文」は
>>非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。
と訳してあります。
この訳は卑怯にもほどがあります。
これだと現代のわれわれの道徳観とも特別反することがない普通の内容に聞こえますが、原文は「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」です。
「天壌無窮」とは、「天と地とともに永遠に極まりなく続くさま」を意味します( )。
「皇運」とは言うまでもなく「皇室の運命」( )。
「扶翼」とは「助け守る」という意味です(
つまり、ここの正しい現代語訳は、
「一旦危機があれば、勇気をもって公(おおやけ)に奉仕し、永遠に続く皇室の運命を助けて守るようにしなさい」
となるのです。
「国民道徳協会訳文」は、「国と平和と安全に奉仕」という、現代人の感覚としても問題がないことが書いてあるかのように騙していますが、実際には「皇室を守れ」と書いてあるのです。
「『国』に危機が迫ったら『皇運』(皇室の運命)を守れ」となってるわけですし、「皇運」を現代語訳が「国」と訳していることからも、教育勅語は皇室と日本とを同一視していることがわかります。教育勅語は明治憲法史観に基づいていることがはっきりとわかるのですが、ここも「国民道徳協会」という謎組織に改竄された現代語訳を読んだだけではわからないところです。 )。
つまり、ここの正しい現代語訳は、
「一旦危機があれば、勇気をもって公(おおやけ)に奉仕し、永遠に続く皇室の運命を助けて守るようにしなさい」
となるのです。
「国民道徳協会訳文」は、「国と平和と安全に奉仕」という、現代人の感覚としても問題がないことが書いてあるかのように騙していますが、実際には「皇室を守れ」と書いてあるのです。
「『国』に危機が迫ったら『皇運』(皇室の運命)を守れ」となってるわけですし、「皇運」を現代語訳が「国」と訳していることからも、教育勅語は皇室と日本とを同一視していることがわかります。教育勅語は明治憲法史観に基づいていることがはっきりとわかるのですが、ここも「国民道徳協会」という謎組織に改竄された現代語訳を読んだだけではわからないところです。 )。
《中略》
教育勅語の目的は、天皇の「忠良な臣民」を作ることです。いいことが書いてあるように見える12の徳目も、その目的は天皇の「忠良な臣民」になることです。
《中略》
「教育勅語が民主的でない」と言われるのは、この明治憲法の天皇主権に基づき、国民を天皇の臣下(臣民)とみなす考え方に貫かれているからなのです。
端的に言いますと、「朕カ忠良ノ臣民」というこの7文字だけで、教育勅語は現在の日本国で使う文言としては余裕でアウトです。
⚫︎教育勅語を学校で教えてはいけない理由
教育勅語が、国民主権の日本国憲法と全く相いれない、明治憲法の天皇主権に基づいて作られたものであるということ……
《中略》
たしかに、個人の思想信条は自由であり、「天皇主権こそが正しいのだ」と考えること自体は自由です。
ところが、幼稚園というのは一条校(学校教育法第1条で定められた学校)なのです。一条校はすべて、教育基本法を守る義務を負っています。
《中略》
ご覧のとおり、教育基本法に、日本の教育は「日本国憲法の精神にのっとり」、「民主的な」国家の形成者を作ることを目的としているとはっきりと書いてあるのです。
皇室と日本を同一視し、国民を天皇の「忠良の臣民」とみなし、何かあったら「皇室の運命を助ける」ことを国民の義務として教える教育勅語が、国民主権を柱とした日本国憲法の精神にのっとっていないことは明白です。
だから、私塾で教育勅語を教えるのは勝手なのですが、教育基本法の支配下に置かれた学校では、教育勅語の暗唱なんぞさせてはいけないのです。それは、教育基本法に反しているからなのです。
《中略》
ご覧のとおり、教育基本法に、日本の教育は「日本国憲法の精神にのっとり」、「民主的な」国家の形成者を作ることを目的としているとはっきりと書いてあるのです。
皇室と日本を同一視し、国民を天皇の「忠良の臣民」とみなし、何かあったら「皇室の運命を助ける」ことを国民の義務として教える教育勅語が、国民主権を柱とした日本国憲法の精神にのっとっていないことは明白です。
だから、私塾で教育勅語を教えるのは勝手なのですが、教育基本法の支配下に置かれた学校では、教育勅語の暗唱なんぞさせてはいけないのです。それは、教育基本法に反しているからなのです。
《後略》
…………………………………………
結論から言えば、憲法論や法理論を言いたいようです。
天皇の忠良なる臣民が「皇室が作った日本」を守るために天皇主権の明治憲法下で作ったもの、だから日本国憲法下にある主権在民の今には沿わない、一条校である (教育基本法第1条による) 幼稚園では教育は日本国憲法にのっとり平和で民主的な国家のために施される、という目的から逸れる、というのが言い分のようです。
しかし、それによって「教育勅語」を教えてはいけないという説明になるのでしょうか?
私論を「屁理屈」的に言わせてもらえば、教育勅語が排斥された昭和23年と言えばGHQ占領下だったわけですし、サンフランシスコ平和条約によって主権回復した時点で日本国憲法も見直すべきだったという捉え方もあります。
これも「屁理屈」というなら、教育勅語の主語が「天皇」だからケシカランと言うのも「屁理屈」のような気がします。
だって、書かれてあること自体は素晴らしいことですからね?
……………………………………
私がここで申し上げたい結論から言うと、結局この「教育勅語の賛否論争」も私はウヨサヨの揚げ足取り合戦なんだろうなぁという見解で、それ自体があまり日本にとって有意義ではないと考えています。
何かと言うと法理論を持ち出して突っ突いてくるサヨ側… 、(前出ブログ主様がサヨクであるとまでは申しません。いわゆる戦後のGHQによる「日本弱体化政策」によって欧米の価値観や考え方に染められた側、とは申せましょう…)、そちら側寄りのモノの言い様や態度というは小ズラ憎いと言いますか… 。
先日も別のSNSで、私がSEARDsについての話になった時に彼ら左側の態度について、
「義務を果たさないで権利ばかり主張する風潮」という風に言及したら、「憲法には三大義務は果たせと書いてあるが、その義務を果たさないと権利は主張できないとは何処にも書いてないですけど?」という、「屁理屈」で延々と絡んできた粘着質な人がいました。
良識や道義をもって考えたら、そんな法理論を振りかざすまでもない問題についても、いちいち欧米発信の法理を持ち出してネチネチ言ってくる思考と態度そのものが、私としては日本人が長年培養してきた精神や風土文化の良い面を壊していく感じがしてどうも気に入りません。
一方、ウヨの「愛国無罪」的なイデオロギーで全ての善悪を判断し、それに沿わない人々は「非国民」と言わんばかりの吊り上がった目付きを感じるのも気色悪いです。
日本は言うまでもなく儒教道徳の影響を濃厚に受けていますが、それは古代中国の聖人、孔子(こうし)・孟子(もうし)の言行録に基づいています。
また、西欧諸国の倫理道徳は旧・新約聖書に由来しています。
洋の東西を問わず、「道徳規範」というものはただ法律として作ればよいものではなく、何か聖なるものに基づいてこそ意義あるものとなり、さらにこれを実践しようとすることによって、自発的にその「道徳規範」を守る心を持つようになるものと思います。
その成立について大日本帝國時代のものである以上、「天皇の忠良なる臣民」が「皇室を作り上げてきた日本」を守るために「天皇」から授けられたというカタチになってはいますが、それが間違いと言うならば、私は「教育勅語」を失ったままの、つまりは「道徳規範」を失ったままの状態である現代日本をこのままにしてイイんですか? と言う風に危惧するものであります。
教育勅語自体の成立はご存知大日本帝國の時代ですから、時は帝國主義の下に国家と国民が必死に国益を考えて守ろうとしなければ、弱肉強食で声の大きい方、力のある方に正義が輝いてしまい、そちら側に潰されかねないという時代であったことがあります。
大日本帝國の場合は、明治維新以後暫くは文明や民衆のレベルが政治的見識をある一定水準で保持出来るようなものではなかったので、維新回天させた薩長の、主に大久保利通の専制が行われていましたが、のちに世論が熟するにつれて国会開設に至って一定の民主制がしかれました。
つまりは、帝國主義全盛の明治日本にあって、日本の国体、または政情や世情に沿ったカタチによるところの「民主主義」はあったわけです。
その時期にこの教育勅語が成立しているという背景は抑えたいところです。
1890(明治23)年10月30日に教育勅語は発布されますが、正式には「教育ニ関スル勅語」といいます。
明治天皇の命により、明治政府の司法省に出仕しフランスに留学、国学にも通じた井上毅と、元田永孚が文章の起案に当ります。
井上毅は、フランスに留学した経験から、教育勅語が「思想や宗教の自由を侵さないようにすること」を重視したことについてはあまり知られてはいないようです。
これらの成立背景を考えたら、決して「天皇」が主語主体であり、凡てにおいて「天皇大権の大日本帝國」のために発布された規範であったとは言い難いものであるとは言えましょう。
よって、この教育勅語賛否両論の論争自体、理屈の応酬になっていて「それがどうした?」という感覚で釈然としません。
私は、一番の問題はこういうことが論争の具にされてしまう風潮そのものである、と思っています。
そもそも教育勅語は、法的背景などというドライな価値観や考え方で語られるべきものではないと思います。
やはり、最大の問題は日本人すべての心に響くような「道徳規範」の喪失にある、というのが私の見解。
教育勅語を失ったことによって日本人に共通する公に対する「道徳規範」も同時に失ってしまったことが一番の不幸ですね。
教育勅語自体素晴らしいことは書いてあるのだし、今失ってしまって乾ききった世情であるならば、創り上げていく他はない。
そのための「一番の癌」は、私は日教組なんだろうと思いますね。