【「新国家建設に向けて…」】:皇太子継宮明仁親王 天皇への道、11歳のお覚悟 | なべちゃりん的な考え方?? 宜しければ、戴いて下さい♪

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こちらのブログより抜粋転記させて頂きました。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h21/jog623.html


…………………

皇太子継宮明仁親王
天皇への道、11歳のお覚悟
(終戦に書かれた日記より)



終戦の玉音放送に、殿下は
「つぎの世を背負って、
新日本建設に進まなければ」
と決意された!


■1.奥日光へ■

昭和20(1945)年7月12日朝、
日光の朝空はうららかに晴れ、
山々の谷間からは朝霧が立ちのぼっていた。

学習院初等科6年生66名は、
重いリュックを背負い、水筒を下げ、
遠足にも出かけるようにはしゃぎ回っている。

その日は、生徒たちが疎開していた日光から、
さらに奥の湯元に再移動する日だった。
すでに近くの宇都宮市も空襲を受け、
大部分が焼失していた。
疎開先の日光も空襲警報が頻繁に出て、
昼の勉強も夜の睡眠も十分にとることが
できない状態だった。

奥日光に着くと、一行は南間ホテルに入った。
ここにはすでに陸軍の少年航空兵
(中学1、2年ぐらい)約100人が
疎開していたので、超満員になった。

9日ほど遅れて、
皇太子殿下(今上陛下)がお着きになった。
殿下は2階の一室を居間兼勉強室とされたが、
おやすみになる時以外は、
ほとんど他の生徒たちと一緒に過ごされた。

生徒たちは午前6時に起床し、
朝礼、ラジオ体操、朝食の後、
8時50分から11時10分まで授業を受けた。
昼食の後は、夕食まで自習をしたり、
魚釣りや野草摘みに出かける。
5時から夕食をとり、夕礼、入浴の後、
7時半には消灯という毎日だった。

授業はホテルから500メートルも離れた
スキー客用の山小屋が使われた。
担任の一人、秋山先生は平素は
やさしいお父さんという感じだったが、
薄暗い教室なので、本に目を近づけて
見ている生徒がいると、「○○!」
と大声で一喝した。
特に、殿下は将来、大勢の人の前に
立たれる方であるから、
つねに立派な姿勢を身につけさせたいと、
殿下の背が丸くなると、
背筋をげんこつでぐりぐりこすって、
背を伸ばさせた。



■2.「殿下だからといって米の特配は許されない」■

食事はホテル内の食堂で一緒にとるのだが、
食糧難の折り柄、ランチ皿の上に軽く一杯のご飯と、
ささやかな野菜の煮付けだけだった。
育ち盛りの少年たちには十分なはずもなかったが、
みな戦争のこともおぼろげながら分かっていて、
食料の不足に不平をいう者もなく、
出されたものを全部平らげて元気に遊び回っていた。

しかし、無邪気に戯れている殿下や学友たちは、
顔は青白く、頬は落ち、手足は細り、
少し駆け回ると疲れてしゃがみこんでしまう。
釣った魚や野草、そして捕まえたイナゴまで食べて、
なんとか栄養を補給していた。

同じホテルに疎開している少年航空兵たちは、
大事な航空兵 の卵として、比較にならない程、
良いものを食べていた。
学習院の生徒たちは、
さぞやうらやましく思ったことであろう。

軍事教官の高杉善治・陸軍中佐は、
この状態を見るに忍びず、
東京の近衛師団司令部に行って、
食料援助を懇請した。
水谷一生・参謀長は、しばらく考え込んだ後、
こう言った。

国民全部が勝つためにあらゆる困苦欠乏に耐えて戦争に
協力しているときに、殿下だからといって米の特配をする
ということは許されるべきことではない。もしそれをすれ
ば皇室に対する国民感情を悪化させるおそれがないとはい
えないであろう。この際はお苦しいことでまことに恐れ多
いことであるが、国民とともに頑張ってもらいたいと思う。




■3.「いただきまあす」■

天皇皇后両陛下も、
一般国民と同じ配給食料を召し上がっておられるので、
水谷参謀長の言葉には賛同するしかなかった。
しかし、やせ細りつつある殿下の様子を
目の当たりにしている高杉中佐は、

「世の非難は一切、自分自身で引き受けるとして、
一週間の米でもよいから特配していただきい」
と懇請を続けた。

参謀長はしばらく考え込んだが、
「そこまで言うのなら」
と一週間分の米や缶詰を配給してくれた。
ちょうど、日光に物資を送る軍のトラック便があったので、
それで運んで貰うことにした。

久しぶりの白米のご飯と牛肉の缶詰が食卓に並んだ。
生徒たちは食卓につき、一瞬でも早く食べたいはずだが、
両手を膝の上において、行儀良く先生方の来場を待った。

先生方が食卓について
「いただきます」という声に合わせて、
生徒たちは「いただきまあす」と、
食堂に鳴り響くような大きな声を出して、
食べ始めた。殿下も隣の学友たちに
「すごいね、きょうのおかずは」と話しかけ、
にこにこ笑いながら頬張っておられた。

高杉中佐は、殿下や学友たちが嬉しそうに
食べている姿に満足したが、
戦争の推移と今後の食料補充のことを考えると、
暗い気持ちになった。




■4.「身をもって殿下のご安泰を守り抜こう」■

8月6日に広島、9日は長崎と原爆が投下され、
軍官民とも恐怖のどん底に追い込まれた矢先に、
東大教授を定年退職した穂積重遠氏らが
新しい侍従として着任した。
新任侍従らは東京を出るとき、
宮内大臣から次のような訓示を受けていた。

将来、戦局の変化によっては本省と東宮職
(皇太子をお護りする人々)との通信連絡も途絶し、
いちいち細部の指示を出せなくなることもある
と思われるので、かかる場合には、
大局的見地より独断機宜(きぎ)に適する処置をとり、
もって皇太子殿下のご安泰を期してもらいたい。

一行は、いかなる情勢に立ち至っても、
身をもって殿下のご安泰を守り抜こうと心に誓い、
戦場に赴く気持ちで、空襲下の東京を発ったのである。

8月13日朝、いつものように山小屋教室に登校する際、
後方から轟々たる爆音が聞こえてきた。
引率の鈴木先生が振り返ると、敵の艦載機が8機、
超低空で谷間を縫って突進してくるではないか。

「それ、空襲だあ! はやく木の下にかくれて伏せろ!」
と先生は怒鳴り、生徒たちはすばやくあたりの
木の繁みの下に飛び込んだ。

鈴木先生は、殿下の手を引きながら
山小屋の先にある防空壕に向かって走った。
殿下をかばうように防空壕に飛び込んだ瞬間、
一機がゴーッと頭上をかすめた。
続いて一機、また一機と通り過ぎていった。

鈴木先生は、防空壕から出て敵機の行方を
しばらく見ていたが、後続機のないことを確かめると、
「殿下、出ましょう」とお手をとって、
殿下を壕から引き出した。
殿下は繁みから出た学友たちと出会って、
「怖かったねえ」と話し合いながら、
山小屋の教室に入って行かれた。





■5.「殿下のご責任と、ご任務は、まことに重大です」■

8月15日正午に陛下の重大放送があるというので、
午前の授業が終わると、生徒たちは南間ホテルの
2階の廊下に集められた。
殿下はお立場上、別室でお聞きになられたほうが
よかろうということになり、
2階の御座所でラジオの前で正座された。
侍従たちは、その後ろで一同直立して放送を待った。

ラジオは雑音も入らず、
陛下のお声を明瞭に聞き取ることができた。
放送が進み、終戦を伝えるものであることが分かった時、
侍従たちの間から嗚咽(おえつ)の声が漏れてきた。

殿下は目を閉じ、頭を深く垂れ、身動きもせずに、
じっとお聞きになっていたが、
しっかり握りしめられた両手はかすかにふるえ、
目頭には涙があふれ、光っていた。
放送が終わってからも、
しばらくその姿勢で座っておられた。

やがて穂積侍従長が、
いたわるように殿下の隣に座って、
孫に諭すような調子で、放送の内容を説明し、
次のような趣旨のことをお話しされた。

戦争に負けて終戦となりましたが、
日本国が滅びたのではありません。
日本はこの敗戦のあらゆる困難を克服して、
再びその存立を確実にし、
繁栄を取り戻さなければならないのです。

この日本再建の時代に際会された殿下のご責任と、
ご任務は、まことに重大です。
どうか、いたずらに悲嘆にくれることなく、
専心ご勉学にはげまれて、
きょうの悲壮なご決意を一生お持ち続けになり、
名天子におなり遊ばしますようにお願い申し上げます。

殿下は黙って、いちいち頷いておられたが、
そのお顔は溌剌たる生気をとりもどし、
堅いご決意のほどがありありと窺われた。





■6.「新日本建設に進まなければなりません」■

その晩、殿下は日記にこう書かれた。

《おそれ多くも天皇陛下が玉音で
米英支蘇4ヶ国の宣言を
御受託になるという詔書を御放送なさいました。

私はそれを伺って非常に残念に思いました。
無条件降伏という国民の恥を、
陛下御自身で御引受けになつて
御放送になつた事は
誠におそれ多い事でありました。・・・

今は日本のどん底です。
それに敵がどんなことを言つて来るか分かりません。
これからは苦しい事つらい事が
どの位あるのかわかりません。・・・

今までは、勝ち抜くための
勉強、運動をして来ましたが、
今度からは皇后陛下の御歌のやうに、
つぎの世を背負つて新日本建設に
進まなければなりません。
それも皆私の双肩にかゝつてゐるのです。
それには先生方、傳育官のいふ事を
よく聞いて実行し、どんな苦しさにも
たへしのんで行けるだけのねばり強さを養い、
もつともつとしっかりして明治天皇のやうに
皆から仰がれるやうになって、
日本を導いて行かなければならないと思ひます》


*前年昭和19(1944)年12月23日、
殿下のお誕生日に、皇后陛下より次の御歌と、
疎開児童と教職員、合計41万6千余人に
25枚入りビスケット各1袋が贈られた。



『疎開児童のうへを思ひて

つぎの世をせおふべき身ぞ

たくましくただしくのびよ

さとにうつりて』

 

終戦の玉音放送を期に、
殿下が将来の地位と責任とを深く自覚され、
その後のご行動、ご勉強、スポーツにおいても、
強いファイトをお示しになったことは、
先生方や側近者がひとしく感じたところであった。


12歳の時の陛下

画像は12歳の時のお写真です