__________前号から、抜粋______
◆もし、愛読して下さっている方が
いらっしゃいましたら、次の
◆まで、すっ飛ばして下さい…。
2009年9月1日。
近所の外国人妻の知り合いで勤続していた会社が
倒産し、ファミレスを渡り歩いていたエディソン
というチリ人が、当家下宿に流れ着いて来ます。
長年、そううつ病に苦しんでいた母親はこの時
『そう状態』にあり、この素性の分らない外人に
私の忠告を押し切って、大金まで都合してしまった…。
金額は、実に分かっているだけで限りなく
桁を超えそうな数百万円…。
彼の企ては、その借金を元本に飲食店を経営して
日系ハーフの奥さんと子供2人をチリから呼び寄せ
いずれは日本人として暮らしていきたいというもの。
2010年2月に数十万の返済はあったものの、予定して
いた開店計画は一向に進まず、借金だけは必ず第一に
我が家に返したいと言います。
その返済計画は、故郷であるチリの自分の土地を
売って金に換えて母親の口座に返済するという…
2010年8月…
約束の期日に振込みがなく
エディソン氏への真を失っていた頃、
事件が起こります。…
2010年8月28日。
エ:『ワタシ、な~んにも悪いことシテナイ』
『なのに、警察署に送られるんです!!!』
は? は? は? は? は?
プライベートの出先で急行出来なかったため、
後日エディソン氏に確認して発覚した事件。
『エディソン氏、〇〇弁当つり銭詐欺疑惑事件』
である。
2010年8月18日に事件は起こっており、
10日後の8月28日、エディソン氏は
〇〇弁当最寄り駅の店長に交番へと
連行された上、
覚
〇〇弁当と貴方との間に存在する民事上の争い
の一切を和解するものとする・…
という和解文書にサインしてしまった
のである!!!
※アルファベットで署名:A・Edison
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エディソン氏は事実無根だとあとで私に主張するが、
日本語の読み書きも出来ずに自分の無実の罪を認め
そしてなし崩しに和解してしまった…。
彼への心象は失墜した。
私は警察にも〇〇弁当側の店長及びお客様相談室にも
事実関係を問合わせたが、警察は民事不介入を理由に、
また弁当チェーン側はマニュアル通りの対応であり
【法的措置】にでない限り証拠は示せないと言う。
証拠も示さず、人を疑い、交番に通報する?
全く意味不明です…
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お客様相談室のタカセ氏は
『私、及び、当社を脅すのですか?』
『あなたの発言は録音されていますよ』
『彼はつり銭詐欺を繰り返すと報告されています』
とまで言ってのけたが、後で私の携帯に
『先ほど申し上げました商店街で噂が出ている
という件に関しましては状況証拠でして
取り上げた件、謝罪申し上げます』
と、噂については謝罪の弁を遺してきた。
噂などを取上げるのなら証拠の開示を再三求めても
『申し上げられません』の一点張りで
『現場の証拠(店長の責任?)は追求せず、
相談室に一括して対応させて欲しい』
と約束させようとします。
私は何かを隠蔽し当事者ではないことをもって
私を遠ざけようとしてはいないだろうか?
と直感します。
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まずは、エディソン氏が詐欺を繰り返すという
状況証拠に根拠があるかの聞き込み調査を
地元商店街で開始。
当該の〇〇弁当の向かいにあるコンビニの店長から
開店前から内装工事を優先し、自転車との人身事故
を起こしていながら無視しようとした件は、
商店街では知られていることで、
『あの弁当チェーンの経営陣はChina系だから
相手にしない方がいいですよ。』
とまで聞き及ぶに至る。
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相手は全国展開するチェーン店なので当然、
【顧問弁護士】 もいることだろうから、
論破するには、法的な専門家に客観的な目で
判断してもらうことは必要不可欠である。
私は無料で相談できる法テラスや区民法律相談室
へ電話して予約を取り、弁護士さんに一部始終を
お話したり、元マスコミ業界出身の伯父
(母親の兄)に相談したりするが…
答えは同じ。
本人が冤罪を晴らす気がなければ意味がない。
私もそれは同じ思いであり、当事者でない自分の
限界に気付き始めた。
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そして…
2010年暮れ。
エディソン氏の下宿を最初にお願いに着た元コロンビア人の
奥さんと玄関先で会い
『彼は私にも200万借りてるけど、必ず返すから大ジョブ』
『私はエディソンさんの妻と友人だから』と言う。
何の根拠で言ってんの???
私は呆れた。
これはもう諦めることも考えなければいけない
と思った。
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病状に障るといけないので、本当の金額を聞いては
いなかったが、母親の方から私に本当のことを言った…。
2009年9月1日。
エディソン氏が転がり込んですぐに数百万を現金化し
必要に応じて数十万円ずつ貸出しをして、ついには
この金額の倍額がエディソン氏に渡っている。。。
さらに、10月某日に証券会社から数百万(外車1台分)
解約した分は…。
全額、エディソン氏に貸出し、
それについては2人で秘密にしていることを白状した…。
しかし、エディソン氏に事実関係に確認すると
母親とシークレットにしている手前か白状しません。
彼は明らかに動揺をしていました。
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そして、年が開けて2011年。。。
母親は週一度の通院のための身支度までも出来なくなり
私は本人が根本的に心の病から発症しているので
躊躇し、非常に悩んだが 【要介護申請】 を行います。
2月24日に 【要介護2】 の認定がおりたが、身体状況が
著しく悪いため、ケアマネージャーを決められずに
3週間が過ぎていった。。。
そして、2011年3月11日を東日本大震災である。。。
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築50年以上で増改築を何度も行っている我が家は
相当に揺れ、私は無意識のまま裏手の墓地へと
避難経路を確保しようとしていた。
一連の揺れがおさまった時、
ハッとした。
『母親のことを一切忘れていた・…』
『護るべき母親をすっかり忘れていた…』
私は混乱した。かつて自分も襲われた 【うつ】 の
症状が出てきた感覚があったのである。
エディソンのことなど、頭からすっ飛んだ。
◆ここまでワープ◆
その夜…。
本当に久しぶりに兄が甥を連れて当家へ訪れた。
会社が異常に揺れて心配だったとのことだが
自宅の無事と母親の容態を半ば 【偵察】に
来て風のように帰ってしまった。
俗に言う 【スープの冷めない距離】 に住んでいるが
『自分たちが行くと惑乱するから』
という名目で、介護は全て私一人任せの格好であり
しかし、節税と母親の傷害保険の対策で
扶養家族にしている兄貴。
エディソン氏が下宿に転がり込んで来た時、
母親は私と気不味くなって、この兄に彼との調停を
依頼してしまった。
兄は、彼の要求をのんでガス湯沸かし器を母親に用意
させたり当座の生活費を都合させたりしたのだ。
まったく調停になっていない。
しかも、この時のやりとりが文書に遺されている
わけではないのである。
それらの借金も、エディソン氏は焦げ付かせたことになる。
私はこの震災までの1年半、母親とエディソン氏の間に
入って、どれだけ骨を折り、気を揉み、
辛い想いをしてきたか。
なぜ、私だけが 【精神的被害】を受けているのだろうか?
_____以上、前号から編集・抜粋______
私は今まで母親にまつわることを【精神的被害】
と捉えてしまっていた、私の中に原因がある
と、ようやく気付き始めました。
そう捉えることが、私の 【独り善がり】 的な面
ではないのだろうかと…。
【独り善がり】 と言うか 【勘違い】 だと。
兄は結婚して家を出ているので、母親とは 【家族】
として同じステージで考えてはいけない関係に
なっている。
私はその後、祖母の介護にも参加し実際に協力した
ので、母親とは苦楽を共にすべき 【家族】 なのである。
どんなことがあっても、最終的には力になるべき
存在でなければいけない。
その力がないとしたら、全ては
【自分の責任】 として考えなければならない
と、この震災を通じて気付いたと言えます。
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震災後、週末になって一旦は世間は混乱から免れた
感がありましたが、日曜日に至ってから関東では
【計画停電】 の問題が出てきました。
早速、寝る部屋がバラバラではマズイということで
母親が寝る4畳半の和室と、その隣りの応接間だけで
生活することにし、その空間だけで寝食を共にする
ようにしました。
繰り返し流れる映像で心を圧迫することを避けて
用意した寝床の枕元にラジオを用意し、13日の
日曜日には無線ルータを買い求めてネット環境も
整えて情報収集に勤めました。
自室の寝具を片付けて振り返って見ると…
なんか、寂しい想いにかられます。
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そして、週明け月曜日にまず第一にすべきことと
考えて行動したことが…。
【私自身が心身ともに健康でなければいけない。】
そのために、私自身の掛かりつけ医に行くべきだ
と思い、出掛けることにしました。
ついでに、母親を看ている身ですから車は欠かせない。
その車を置いている駐車場のすぐ脇がブロック塀なので
愛車が使えない状態になっていないかを確認に行き、
大丈夫だったので、そのままその足でクルマに載って
私は通院しました。
FMラジオを聞いていましたが、コマーシャルはなし。
ずっと、何らかの情報を流していましたが、
14日のお昼前だったと思います。
その通院までの車中で、あの福島第一原発が
『水素爆発を起こした』
ことを知ります。
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都内の道は意外と空いていました。
非日常的な災害時で、特に電力の問題では混乱し
先が見えない状況の中、自分が本格的な介護者
になる覚悟を決めなければならないかもしれない
という不安を抱きながら走っていると、
高齢者施設の送迎車と数回擦れ違った時などは、
その日常的な光景と、非常時的である切迫感とが
心の中で整理されずに混沌とした想いにかられて
いたことを、今でも思い出します。。。
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病院では、初めて医院長先生の診察を受けて
デパゲンというお薬を処方していただきます。
ココロが風雨に晒されてしまい、落ち込んだり
逆に興奮して暴走しそうな時に飲むクスリです。
『ココロのガーゼだと思って下さいね』
『この大変な時期を笑って話せる日が来ます』
先生はそうおっしゃり、私を送り出してくれました。
本当にそんな日が来るのだろうか?
そう、思いましたが
今与えられた状況の中で、すべきこと、
やらなければならないことを最善を尽くしてやる。
それしかないと言い聞かせながら
自宅に向かったことを思い出します。
エディソン氏のことは、完全に吹っ飛んでいました。
続く…