人間は理性と感性で
ものごとを捉えています。
どちらが先に働くかは
ケースバイケースなのでしょうが
ほぼ感性が先のような気がします。
観念の扉をあけようの回で、
人間は多分に観念に捕らわれて
ものごとを見ようとすると
お話しましたが、
観念が居座っている限り、
人間はどんなことでも悲しいかな
感情的に偏った見方をして
しまう気がしています。
みずみずしい感性は必要です。
濁った感性から新鮮な芸術は
生まれないものです。
しかし、感性だけで野放し
のまま自分をさらけたら、
人間として生きていくために
必要な秩序を失ってしまう
ことになりますね。
理性は、感性のままである
人間を制御します。
理で諭し、ものごとに
ルールや方向性を与えます。
したいことをしたいまま
やっていれば良いという
わけではありません。
そんなことが許される世界では
野蛮で生きていけないでしょう。
しかし、
理屈だけで人間は動きません。
必ずどうしたら自分が心地よいか、
幸福感を得られるのか、
どっちが得かなど、
感性を働かせて動いています。
感受性がなければ、
受信機のないテレビのごとく
ただの器でしかありません。
伝授した何かを
自分というトランスミッター
で分析する。
その時、理性で解析し、
自分の意見や
行動の原理原則に成り得ます。
よく音楽をやっていると
センスが良ければ
理論は関係ない
という人が居たりしますが、
人間のセンスで心地よい音を
楽典として体系化し、
のちに理論で説明
できているから、
音楽は成立している
部分がありますね。
もちろん、
人間の感ずることには
例外もありますので
体系化から外れた世界で
また成立している理論
もあるわけです。
濁っているのに
美しいハーモニーがあったり、
通常説明がつかない音階を
アドリブで当てはめてみたが、
弾いていても聴いてみても
何だか心地よいとか。
そういった現象もあるわけです。
なので、
感性のまま
感情のまま走れるのは、
芸術のように、
発したければ発すれば良い
受け取る人々の
評価に任せましょう
という世界では、
大いに成立しますね。
それまでの理論で説明などつかなくても、
後から理屈を付け加えることだって
間違いではない事由にあたるわけですから。
しかし、理屈にあわなければ
いくら感情的になっても
通してはいけない秩序があります。
観念や感情などで
単に見えてなかったことには
謙虚にメスをいれ、
己の想念を疑い
理論や理屈を正確に把握し、
それに従うことは
人間社会に生きる者としては
ごく当たり前ですから。
問題は、
その理論、理屈に
偏った説明や解釈が
ないかどうかです。
一般的に通じることなのか?
普遍的真理のあるものなのか?
立場、考え方が
はっきりしないと
言い切れるもの
ではありません。
どうしたいのか?
どうありたいのか?
各々の意志や意思が
大変重要であり
そこがしっかりしている人こそ、
自分を自分で把握した
アイデンティティのある
魅力的な人だと言えます。
豊かな感性を持ち、
人の世を、人の心を分かり
そして確かな理性によって
立場や考え方が明らかであり、
しっかりした自分がある人。
そんな、感性と理性が
備わった人が
素晴らしい人間
であると思います。
あの人は理屈っぽいと
言われる人ほど暖かい人
であったり、
逆に、感情的な人ほど
自分に従わない人には
極端に冷たい『俺様的』
な人だったりします!
我々は少なくとも
日本人です。
日本人としての
感受性を豊かに、
そしてしっかりした
秩序を持ち
この国の成り立ち
と今の姿カタチ、
そして行く末を考える
魅力的な人格を
今とても必要としている
ように感じています。
人として魅力的で
立派な人間であれば
すなわち日本を愛する
日本人ということです。
そうありたいなぁと
国会中継をみながら
思いました。
みなさんは
今の政治に理性を感じますか?
政権という名の
利権だけを維持したいという
空気しか感じませんが。
なべちゃりん