~前回(第2回)のあらすじ~
ウズベキスタンに到着してから波乱の連続。寮ではボヤ騒ぎになり、寮を去る始末。
一方で小旅行に出かけたり、オシャレな通りを楽しんだりと、悪いことばかりではない。授業も何とかついていけているし。
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そもそも1週間に1記事を目指していたが、気付いたら1か月ほど経ってしまった。毎度のことながら、それだけ多忙ということである。
前回「もっと良い報告ができるように頑張る」と書いたが、良い報告のネタが数週間のうちに何件かできたので、今回はそれについて書くことにする。
①外国人向けウズベク語コンテストの話
去る(去りすぎているが)10月21日はウズベク語の日である。ナショナリズムが著しいウズベキスタンでは、ウズベク語は国家語としての確固たる地位を得、閣僚会議の下部組織として「閣僚会議国家語発展部門(Vazirlar Mahkamasining Davlat tilini rivojlantirish departamenti)」なるものも存在する。
そんなウズベキスタンの政府は最近、外国人学生向けのウズベク語コンテストを開催するようになった。正式名称は「O’zbek tili - qalbim tarjimoni (ウズベク語とは、私の心の翻訳者である)」だ。
9月18日
事の発端はこの日に遡る。
先生がいきなり「実はウズベク語コンテストがあって、それの審査があるから明日までに自己紹介の動画を撮ってテレグラム(注:旧ソ連圏でよく使われるSNS)のグループに送って~」と言った。
藪からkaltak(どうでも良い注:「藪からstick」のウズベク語版)である。先生曰く「忘れてた~」とのことだが、前述の通りそんな政府主催の重大なことを忘れていいはずがない。
それでも課題は課題なので、まだ電球が破裂する前の寮で、カンペをガン見しながら自己紹介をした。カンペを読んでも3-4テイクはかかったが。
翌日。
「あなたが一番良かったから、あなたが次のステージ進出ってことで」
嘘つけ。
「あなたは間違いも少なかったし、何も見ずに話していた」
「ちゃんと原稿読みましたが」
「本当?」
「はい」
「何も見ずに話すべきでした」
すみません先生。
余談だが、クラスメートの中にはウズベク語が堪能な人がいる。その人は授業の通訳担当&先生との仲介担当みたいなポジションにおり、非常に頼りになる存在である。その人を差し置ける道理はどこにもない。とっさにその人を推薦したが、先生は頑なに私を推した。どうして。(ちなみにこの審査は現地の大学のニュースサイトみたいなものに載って、ちょっとしたニュースになった)
そして矢継ぎ早に先生は言う。
「授業後、次の審査のために自己紹介の映像を撮ります」
先生も大分焦っているようである。にしても藪から(以下略)。
後で分かったことだが、これは2次審査と最終審査に残る15人を決めるために行われたものである。ここで前日の晩にカンペをガン見しながら自己紹介したツケが回ってきた。別に自己紹介できないほど私のウズベク語力は乏しいわけではない。ただ、ちゃんと文法的に完成され洗練された文章を暗記して話すというのなら話は別である。しかも私は短期記憶がものすごく苦手で、先生が「○○って言いなさい」と言ったのが3秒で頭から抜けてしまう。ここまで来ると記憶細胞だけニワトリのそれが移植されたのではなかろうかと思ってしまうほどである。
結局大学のホールでグダグダなウズベク語を話し、次の日には映像が出来上がっていた。後述の学生証の遅さに比べれば段違いのスピードである。しかもクオリティが高い。ウズベキスタンの映像編集技術は多分他国に比肩するほどだと思う。
そしてまた次の日には、2次審査と最終審査に選ばれた時のために、エッセイの練習と歌の練習が始まった。課題曲はYallaというミュージック・アンサンブルのOmon yorという曲。後に私の指導教員であり、このコンテストを大学ホームページに掲載してくださったK先生が「溌溂たる恋人よ」と訳した、ウズベキスタンの歌謡曲である。
「歌を明日までに覚えてきて」と言われ、大学から帰った後、曲を何度もリピートした。念のためもう一度言うが、私の記憶力はよわよわである。
それに加え、伝統舞踊に造詣が深いクラスメートが先生からの依頼で友情出演という名の動員することになった。実際、後述の最終審査は彼女のダンスに助けられた部分が大きい。この場を借りてお礼を言いたい。本当にありがとう。
エッセイの練習は、私が書いてきた文章を先生が添削するという形式だった。どことなく、大学受験の時の英文添削を彷彿とさせる。当然私の文章には大量の赤ペンが入る。それに加え、あれを書け、これを書けと注文がついてくる。ウズベキスタンをやたらと称賛する文章が出来上がっていた。断りを入れておくが、私は中央アジアを好きになるにあたって、ウズベク人やウズベク文化のような特定の民族や特定の文化にこだわりがあるわけではない。むしろ私は多文化性こそ中央アジアの最大の魅力だと思っている。しかしそれを書いたところで趣旨からは大分ズレてしまうし、最悪の場合私の身に何が起きるか分かったものではない。私の良心に反しえない限りで、良いところを書き連ねることにした。
この頃には、先生方から「1位を獲ろう!賞金貰おう!」と結構な頻度で言われた。まぁリップサービスだと思って適当に受け流していたが、先生は冗談半分ではない顔をしていた。何度も言うが、それだけ重要な催しなのである。
最終審査数日前、避難先のホテルでまったりしていたら、突如テレグラムの通知が鳴った。先生からだ。
「こんばんは。おめでとう」
この2文で全てを察した。あのしどろもどろな自己紹介が審査を通り、いよいよ最後の15人に選ばれてしまった。
10月17日
この日は2次審査。ウズベキスタン中から集まった15名の大学生が一堂に会し、エッセイを書くというものである。
お題はウズベキスタンに関する自由なテーマ。制限時間は90分で、最低200字。机の上にはノートと青のボールペン。つまり書き損じは致命傷である。
200字以上の割には時間はたっぷりあったが、あがり症の私は緊張しすぎてしまい、書くべき内容をほとんど忘れてしまった。しまいには「私のタシュケントでの生活と学びの時間は黄金に等しいのである」と何とも詩的な文を書く始末。でも、これといったミスもなく、無事提出した。
ちなみに会場のタシュケント国立経済大学(Toshkent davlat iqtisodiyot universiteti)は建物がかなり新しく綺麗だったし、特大チェスまで置いてあった。余談だが、ウズベキスタンではチェスが人気である。
10月18日
いよいよ最終審査。平日だったが授業は無くなり、クラスメートも観客としてフル動員。ありがたいを通り越して申し訳なくなってくる。
盛大な催しというだけあって、審査開始前から報道各社がこぞってインタビューをしていた。私も数社からインタビューを受けた。これが私の海外のテレビ出演第1号である。
そうこうしているうちに、いよいよ審査が始まった。
第一印象は、「…あまりにコンテストが殺伐としている(しょうもない注:当たり前である)」といったものである。多分この雰囲気で歌ったらシケて終わるだろう。
私の出番は10番目であった。半ば諦めの気持ちもありつつ、腹は括れるだけ括った。
ここで冒頭の挨拶の日本語訳を全文掲載する。(同期の自己紹介は割愛)
「こんにちは、敬愛する先生方、敬愛するウズベキスタン人の皆様、敬愛する観客の皆様、敬愛する日本人の皆様。
(拍手)
私の名前は○○(本名)です。日本人です。東京外国語大学から来ました。本日はウズベク語の日をお祝いいたします。ウズベク語が偉大なるウズベキスタンと共に永遠に在らんことを。
(拍手)
今から歌を歌います。歌で祝福いたします。ただし1つだけ条件があります。お願いです。立ってください。私たちと共に歌ってください。共に踊ってください。それではお願いします」
音楽がかかる。観客総立ち(さすがに審査員は座っていたが)。一気に会場の雰囲気が変わるのを実感した。
しかし音量のなんと大きなことか。最初はマイク無しで歌っていたが、途中でスタッフからマイクを渡された。後で友人が撮ってくれた動画を見返したが、冒頭私の歌声は全くと良いほど聞こえていない。
約3分半、はるばる遠方からやって来た我々日本人は、良くも悪くもホールをコンサート会場にしてしまった。
審査終了後、審査員は審議のため退出。待ち時間のホールはさしずめライブである。必ず誰かしらが歌ったり踊ったりしている。しかも音楽は例のごとく爆音である。日本のような自由な待ち時間などない。
2-30分は経っただろうか。審査員が戻ってきて、結果発表を行う。司会が「eng yaxshi tarjimon…(最高の通訳)」やらなんやらと言った後、名前が呼ばれる。初めはこれが優勝だと思っていた。が、後で分かったことだが、これは奨励賞みたいな意味合いの名前である。
その後も次々と名前が呼ばれる。私の名前は呼ばれない。まぁこの中では語学力的に最下位でしょ、と半ば諦めていた。
前列にいた審査員のひとりが振り向く。
「まだ名前呼ばれていないね、君」
「どうしてでしょうね」
「良かったよ」
だがここで、「第3位は…」というアナウンスが。
ここで初めて、ウズベキスタンが日本のように1位の発表は最後に行われることに気付いた。待って私上位にランクインしたの!?
第3位はパキスタン出身の学生(注:なんとこの学生はウズベキスタン東部アンディジャンの大学に在籍しているスーパー優秀な医学生である!)。
第2位は韓国出身の学生。
いや、まさかだろ。
「あなた1位よ!ほら準備して!」
…ありえない。ありえなさすぎる。夢でも見ているのか。
歓声とウズベキスタンあるあるの爆音サウンドと共に私の名前が呼ばれる。壇上に上がって賞状と花束を受け取る。
なんとなんと外国人学生向けのウズベク語コンテストで優勝しました pic.twitter.com/3IlSd4ygSW
— Luke Walter @🇺🇿 (@LW_creatour) October 18, 2023
この時の感情は、言葉で表しきれない。驚き、戸惑い、嬉しさ、感謝、そういったものが複雑に絡み合っていたと記憶している。
余談だが、この後ありがたいことに国営テレビ局の生放送に2回も出させて頂いたり、インタビューを受けさせて頂いたりした。これは留学後にまとめて書こうと思っている。
②学生証の話
ウズベク語コンテストの話が重すぎてこれ以上読んだら胃もたれするだろうが、残りの文章もお付き合い願いたい。
ウズベキスタンに留学する人は、現地の学生証を取得できる(というより、取得しておいた方が良い。というのも観光施設や博物館に外国人価格より安価で入れるから!)
友人が旅行に行くのに合わせ、私も学生証の申請をすることに。最初に4×3cmの顔写真を大学の国際課に提出。ただし待てど暮らせど返事は来ない。聞いたら「あなたの所属する学部に写真を渡したからそっちに聞け」とのことである。おーっと嫌な予感。
所属している学部に聞いてみる。まだ若い職員に学生証の進捗を聞く。
「来週までに準備するよ」
→翌週「明日までにやる」
→翌日「明日までにやる」
はいきた。
ウズベク語の「明日までにやる」は信用度0を通り越してマイナスである。
翌日。
友人と一緒に例の職員のもとに押し掛ける。それでも結果は変わらず。
なんとここで学部長が登場。事情を説明したらその人にものすごい剣幕で怒鳴りつけてくださった。この学部長はめちゃくちゃ優しい、学生思いの先生である。ウズベキスタンは年長者への尊敬が大鉄則の国だが、それ以上に大半が人として素晴らしい方である。
一抹の期待と共に、翌日また職員のもとを訪ねる。
「5000スム(約60円)で学生証の台紙を買ってきて。買ったら別の部署に連れて行ってあげる」
……
ウズベキスタン流タライ回しの発動である。最初からその部署に案内してくれよ!!
どうやら学生証の台紙は市販で、それを顔写真と共にしかるべき部署に持っていったら、個人情報やら何やらが書き込まれた学生証が発行されるという。
その部署は大学から徒歩10分ほどの別のキャンパスにある。台紙や顔写真など必要なもの一式を持っていったら翌日にはすんなり発行してくれた。
余談だが、ウズベク語で学生証はtalabalik guvohnomasi(タラバリク・グヴォフナーマシ)である。
ともあれ何とか入手。職員の人は「普通の学部生は11月になってようやく受け取れるんだよ」と言っていた。はっきり言ってこの大学は大規模なシステム改革が必要だと思う…。
留意したいのは、学生証を発行する部署は15時で閉まるということである。不幸なるかな、留学生用の授業は大体15時に終わる。たかが学生証、されど学生証なのである。
③マンションの話
前回もお話しした通り、寮のボヤ騒ぎの後、私はルームメイトと共に寮を出た。
理由はここには書けないが、ホテル暮らしはかなり長引いた。かなり精神的にも安定しない状態で、あと数週間続いたら確実に発狂していたと思う。
私は友人の伝手を辿って、ウズベキスタンの不動産会社とコンタクトを取った。あれこれ条件を伝えると、物件を紹介してくれた。
私の場合、運がとても良かった。
・大学から徒歩圏内の好立地
・wi-fi完備
・交通の便◎
・家具付き、タオル付き、おまけにガス暖炉付き
ネックは家賃だった。月450ドルと、円安の日本人にはキツい。しかもこれを誰かとシェアすることなく、1人で全額払うというのだ。奨学金が家賃に消えていく。
しかし、これでQOLが確保されると思えば安いのもまた事実である。私の衝動性も手助けして、翌日には内見、そして内見したその日に住む決意を固めた。
しかしここで問題が。
「PINFL持ってるかい?」
初耳である。
ウズベキスタンでは、自分で部屋を借りたり銀行口座を開設したりする時には、14桁の個人番号(PINFL/JSHSHIR)が必要である。日本のマイナンバー制度のようなものと思ってもらえれば良いだろう。
住む予定の地区の行政事務所(qabulxona: カブールハナ)で顔写真と指紋を登録。何かあったらすぐ身元が分かるということである。何もないようにしないといけないのだが。
そんなこんなで大家と契約。ちなみに、大家さんはロシア語の先生をされているらしく、かつては日本の某大企業の社員にロシア語を教えていたとか。「分からないことがあったらいつでも質問してね~」と言ってくれた。ロシア語弱者の私にとってはこの上ない存在。ありがたいという言葉で言い表せないほどありがたい。
後日再びレギストラーツィヤ(留学日記(1)参照)を行った。私は授業があるため、大学の担当者(注:国際課でバイトしている博士課程の方。どうかこんな大学業務ではなく研究に没頭してほしい)が代理でやってくれた。かかった金額、約300万スム(約36600円)。日本でも相当の大金である。「また引っ越すんだったら同じ額払わなきゃいけないよ」と言われたが、誰がそう引っ越したがるんだ。というか元凶は寮のボヤ騒ぎだろ。
とにもかくにも、ウズベキスタンのアパートに合法的に住むことができたのである。Xudoga shukur(フダ―ギャシュクル:ウズベク語で「ありがたい」)。
しかしその数週間後、大家さんからまた連絡が来た。
「電子キーある?」
なんじゃそりゃ、と思って尋ねてみると、今度は課税証明書のために電子キーが必要らしい。こちらも前述の事務所でものの数分で作ってくれた。ちなみに書き忘れていたが、これらの業務には毎回料金が発生する。相場は30000スム(約360円)程度である。
そしてその電子キーを携え、今度は税務署みたいな場所で申告。どうやら家賃の12%を税として役所に納めなければならないらしい。大家さん曰く、「誰か来てもこの課税証明書を見せればOK」とのこと。やっぱり合法の安心感は強い。
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ちょっとゴタゴタもしたけど、10月末には色々落ち着き、やっと学生らしい生活が始まった。
語学力は高まったような、高まっていないような、あまりよく分からない。もっと熱心に、それこそ受験生のように寝る間も惜しんで勉強しなければならないだろう。少し学業への態度を改める必要がある。
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「お客様感覚で留学するな」という意見は真っ当である。大学留学をする上では、その大学のシステムに従って行動することが求められる。そこでは留学生は必ずしも優遇されない。
とはいえ、タライ回しなどといったものは必ずしも是認されて良い話ではない。ウズベキスタンの人たちは「Xudo xohlasa(注:「神様がお望みになれば=気が向けば」)」とよく言うが、明らかな職務怠慢行為に関してはそもそも神様がお望みになっていないはずだ。中央アジア熱が高まってきている(?)昨今、私はウズベキスタン留学簡易マニュアルを作りたいと考えている。これこそXudo xohlasaになりそうだが。
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最後に本日の1枚。
ウズベク語コンテストの参加者全員に贈られた陶器セット。日本にどうやって持ち帰ろう。
ではまた。