今月新月に
愛宕神社へ参拝してきました
どうしても行きたくて。
愛宕神社は二度目の参拝。
前回は2015年3月29日
(記録があったー)
私にとっては
6年半振りの愛宕神社です。
前回は
夜の参拝だったので
(有名な方々と参拝)
快晴の愛宕神社は
また一段と輝いているような。
- 主祭神
- 火産霊命(ほむすびのみこと)〈火の神〉
- 配祀
- 罔象女命(みずはのめのみこと)〈水の神〉
- 大山祇命(おおやまづみのみこと)〈山の神〉
- 日本武尊(やまとたけるのみこと)〈武徳の神〉
- 将軍地蔵尊・普賢大菩薩
- 境内末社
- 太郎坊神社、福寿稲荷神社、弁財天舎、恵比寿大黒社
- 創建
- 1603年(慶長8年)
HPより
【出世の石段】
愛宕神社に上がる急な石段は「出世の石段」と呼ばれています。その由来は講談で有名な「寛永三馬術」の中の曲垣平九郎(まがき・へいくろう)の故事にちなみます。
時は寛永11年、江戸三代将軍、家光公が将軍家の菩提寺である芝の増上寺にご参詣のお帰りに、ここ愛宕神社の下を通りました。折しも春、愛宕山には源平の梅が満開。家光公は、その梅を目にされ、「誰か、馬にてあの梅を取って参れ!」と命ぜられました。
しかしこの愛宕山の石段はとても急勾配。歩いてのぼり降りをするのすら、ちょっと勇気が必要なのに、馬でこの石段をのぼって梅を取ってくることなど、とてもできそうにありません。下手すれば、よくて重傷、悪ければ命を落としそう。家臣たちは、みな一様に下を向いております。家光公は、みるみる機嫌が悪くなり、もう少したてば、怒りバクハツ!というそのときに、この石段をパカッ、パカッ、パカッとのぼりはじめた者がおりました。家光公。その者の顔に見覚えがありません。
「あの者は誰だ」
近習の臣に知る者はありません。
「おそれながら」
「おう」
「あの者は四国丸亀藩の家臣で曲垣平九郎(まがき・へいくろう)と申す者でございます」
「そうか。この泰平の世に馬術の稽古怠りなきこと、まことにあっぱれである」
平九郎は見事、山上の梅を手折り、馬にて石段をのぼり降りし、家光公に梅を献上いたしました。
平九郎は家光公より「日本一の馬術の名人」と讃えられ、その名は一日にして全国にとどろいたと伝えられております。
この故事にちなみ、愛宕神社正面の坂(男坂)を「出世の石段」と呼び、毎日多くの方が、この男坂の出世の石段を登って神社にお参りにみえております。なお、実際に神社にみえた方は男坂をごらんになって、
「こんな石段を馬が上れるわけがない。曲垣平九郎の話は講談だからウソだろう」
と思われるのですが、江戸以降にも男坂を馬で登り降りすることにトライをして、成功している方が何人かいらっしゃいます。
明治15年・石川清馬(セイマ。宮城県出身)
大正14年・岩木利夫(参謀本部馬丁)廃馬になる愛馬のために最後の花道をつくった
昭和57年・渡辺隆馬(ワタナベ リュウマ。スタントマン)「史実に挑戦」というテレビの特番で。
この番組では石川五右衛門は本当に大凧に乗って逃げたのか、なんていうのもやりました。
神社では、男坂を馬で上下するのに成功された方の絵や写真を見ることができます。また、曲垣平九郎が献上したと言われる梅の木は、拝殿前の左手にあり、神社の四季を美しく彩っています。
- (写真はHPより)
新月参拝が
愛宕神社でよかったなぁと
感じる時間でした
愛宕神社
蠍座新月
に感謝して
準備中