8月13日

時に気分が切り替わり、遠足を待つ気分、つまり上手く行くという信念

というか、未来への、自分への自信

というか、考えが浅くて、ひたすら 起こることへの花丸印

理由のないまさに信頼と信仰

は感じるのだけど、事実の壁にはたくさんのハテナが刺さっているので

対応はせざるを得ない、するとまた

不安と不可能感、絶望感が覆いかぶさってくる

こんな人じゃなかったのになあ、と自分で驚き 処置なし、と思う。

 

そんな今朝7時、ベッドに腰掛けたまま

オハヨーございます、神さん と挨拶はして

眠らせてもらってよかったです。昨日はあたしの夫たちが二人とも

実相体と合一したのを感じさせてもらったの、ありがたし。

オメデトーと叫んでしまいましたよ。あたしを当然憎んでいる人にも

憎んでいいのに憎んでいない人にも、それぞれお盆の挨拶して

どうにか神さんにしがみついている錐子ですけど。

 

ふと、そこから立ち上がり

キッチンでふと、窓の外をみやると

鬱蒼と茂った大木の向こうに、いつもの小山が

半分は緑に、半分は霧に覆われ灰色に 日本の里山みたく

ふと、笑った顔であらまあ、とか話しかける。

 

コーヒーとレモンチョコ一切れと共にまずは

マックの前に座す。いつもの「アンチカオス」和約をせむと。実は

最近のXで読む大問題に関する量子物理学発言が、

この本のこことまさに同じ内容なので

もう面白くて仕方ない、(あたしが本当には理解していないのはもちろんです)

 

ちょっと音楽でもないかしら、雑音がないといいけど、試しに、

いつもは雑音過多で我慢できなくなる小型らじををつけてみる。

 

いきなり、雑音なしの男声が

「山というのは、孤独に地上からそびえるもの

空へ近いもの、宇宙との繋がりの近いところ」

などと。どうも日曜日のミサらしい。

「イエスは一人きりで山へ登り、父と親しく話し合う」

 

一つ一つの言葉が含む記号的内容が、あたしの涙腺を壊した

このような情的関係性はいつもあたしを泣かせる、悲しみじゃない

 

 

神さん、返事してもらってありがとうござんす。

男声は、続いて自分の抱える不安を語る、

自分が本当に正しく仕事をこなしていけるか

司祭としての不安があるという。

そこでマティアスの有名な水上のイエスの引用に移った。弟子たちは小舟に揺られて不安に駆られていたが、

そこに水上を幽霊かと見える姿がこちらにやってくる。

逃げ惑う彼らに聞き覚えのある声がする(錐子、書きながら落涙)

 

「私だよ、ここにいるから恐れなくていい」

 

まさに、ひとりぼっちで助けてもらうあてもない、

今のあたしに向けられた心だった

そうか、欠けていたのは、必要なのは、深い帰依の心

 

信頼、信仰だ、絶対安心とは遠いところで怖がっていた

従姉妹の聖子ちゃんが告げてくれたあの言葉、あの意外な心持ち

 

起こること起こったこと、為したことが最善だったと思うのよ

 

それには摂理への絶対的な信頼がなければならない

そんな信頼を全能者に寄せるのが信仰という言葉である。信心でもあるだろう

 

例え死んでも浮浪者になっても、大丈夫で大安心だと心を括れば

おそらく大丈夫だろう。そこまで自然の摂理を信頼している。

死を不幸なことと思うのが勘違いだった、長年にわたる人類の思い込み。

 

具体的な人生の知恵もあるだろう、人間の心理と意識はあまりに繊細に左右にブレる、すぐに正しい閾値からずれてしまう。例えばこの後の司祭の引用では、奇跡を起こして魚を配れば、人々の心はイエス自身より魚への渇望にブレてしまう。

本源の泉は上記のような、ここだろう、宇宙へのこの全幅の信頼

ちょっとアホみたいではあるけどねー

 

いずれにしても特別な配慮をいただきました!

完全な帰依の心がいわゆる「ありのまま」という言葉で表現されているらしい

あたしにはこれまで納得し難かった言葉でした。

 

幻像人類の取り返しのつかない悪も素晴らしい善も

この観点から調査研究していきましょう。

 

この後に、あたしの山ほどの心配ごとを書き連ねようかと思っていたけれど

もちろんそれはやめておいたほうがいいかな、と。