2023年7月17日月曜日

書くに値することがなかった/つまり静かな日々であった/神さんとの交流を感じる熱感に喜ばされて/音楽もあれこれと

 

毎朝の虹散乱を楽しむ行事は、2本目の枝を公園から拾ってきたのを

なんとか工夫したらまた楽しめるようになった。

その中で「アンチカオス」邦訳の仕事をする、素敵だ。

 

日々更新、ではあるけれども、最近の流行にもれず、あたしも

最新の物理学とその形而上学的解釈を両天秤にかけて、

神さんと二人三脚で

この世の 単純に見えるもの&単純に見えないもののお互いの

仕組みの定義ができないものかと 無謀であるが、

しかし個人の自由なので死をかけて残生をつぎ込むつもりで

なお生き残っているわけでございますね〜

 

ちょっと今日までに得られた最新私見:世界の概観を備忘録的に記述します。

 

何で測っていいかはまだ不明ながら 実在する無限大無限小の世界

つまり大宇宙という感じ、ただしダークモンスター含む

そしてこれは

(私見:我らこのお互いに見知っている)人類の感覚器官をおそらく透過

するほどに

在にして不在の(私見:喜びの)エネルギーと法則の全一性なのですが、

 

そのほんの一部が量子物理にも不可知なプロセスによりエネルギー凝縮し

いわゆる「神の子」の住む天国が形成されました。そこに真善美の具体が形をとったわけで それは一つの物質世界(宇宙を含む)ながら大元のエネルギー世界と一つの面?上にあるわけです。(これも物理学者の示す現象の私見解釈)

 

我らこのお互いに見知っている人類はそれを視覚的にとらえることはなく、そもそもそこには登場していません。

そしてエネルギー=光=>物質 というプロセスにも登場しません、

ただそれらと入り混じっているだろうというのが、あたしの最新意見。

つまり天国性もあるということです。ある、ってどこに?

 

ここ、この我らが在ると思っているこの場所も 

全一のエネルギー界の一部に他なりません。だから天国性ありなんです

では天国性でない部分については?

これも神さんの示唆を受けて思いついたことなのですが、

光は物質にぶつかると初めて一応ストップして、反射する、

光のない部分つまり影が生じる、真っ黒というわけじゃなく、真正の光も透るので天国世界のシステムも映り込んではくる

 

そこでもそんな不正確な光情報&真正の光情報などを受け取る器官、

つまり脳神経細胞があるわけでしょう、

ただそれが認識する外界は幻であります。天国界では幻はないはずです、私見。

 

世界は無い、とは物理学者まで言うようになった。

無い物理学者が幻の(何%かは不明)現象から

論を組み立て実証し解明を試みたのが、幻としての我らが/幻を相手にしている/実証的な結果です。そこには なので正解と不正解が混ざってはいても、

 

幻の人類だって一部はそう捨てたものではなく 知らずに天国のシステムににじり寄ってはいるのだろうと思います。

裏表混ざった科学的成果を我らは見せてもらっているわけです。

 

同様に十分に真偽を区別する用心深さが必要とされるのは、我らの意識界

むしろここに全てが詰まっている、

幻(と真実の一部)を認知し幻とは思わずに理解し信じてさらに促進進化してゆく、

それは時間的に見れば長い 不可知な不条理なあるいは真善美に近いこともある、

ともかく誰にとっても、真善美を追求するがゆえにも、苦闘と葛藤から免れえない日々なわけです。

そうすると、むしろこの我らの世界の幻の現実をもっと徹底的に

解明理解整理することが重要となってきますよね。

 

人類が苦心して見つけた自分の存在は自然システムも含め、その根本的な次元ではほとんど「無い!?」

真空?無?の中の一粒の物質、から成るこの体、科学的にわかった!

すると必然的に、(科学を人類の偉業と基本的には見なしているので)、

ここに真理の一端がわかっている、これが真実の姿であると

いつの間にか思考の根本がずれてしまう。

ある部分は知らずに真実を見つけた、しかしそもそもの全体像と自己像が、そこがまさに的確ではなかった、私見。

 

歴史もあり有効な科学もあり、体験として存在を感じている、お互いの存在を認識し合っているのは我らの意識である。働いてやまない脳からの印象であり、あるいは脳の見せる幻の世界、「幻である我ら」とも言える。これが空恐ろしいことに、人類の科学の、たどり着いた「自然真理」の結論である。

ところがその幻が暴かれる地点まできた故に、それゆえになお生じる真の真実という

遥かな扉の前に立つ。

 

真の真相ではないが、しかし影の世界とはいえ真理の支配する領域に変わりはないので人類が観察できて組み立てることができた結果にも当然真の真実は混ざっている。その混ざり方は完全に謎、と言うのも真の真実と影の真実が混ざっているなんてそんな考え方自体が稀であるので今のところ、それを考慮した思考体系そのものが存在しない。私見

 

 

*さて、夢物語はここら辺にして、幻像的天国?生活に変化? ありかも。

6月になりパスポート延長なり、続いて仮ヴィザも新たにもらい、壊れた電化製品の手当てもすみ、

6月末から、ついにドイツ移住の使命と認定した「アンチカオス」邦訳作業進捗とともに、

7月になるとちょっと瞑想の腕?が上がり効いている?感を喜ぶ。

同時に帰国したら方丈の家を手に入れられるかと検索、

7月中ばから物理の知見をできるだけ集め、同時にこの意識の世界の様相をできるだけ解明しようと猛然と決意する。

 

ついに7月17日は、一時帰国便をネットで探す、という行動に出た。

霜月2日に羽田に向かい睦月8日にフランクフルトに向かう、くらいかなと

思って打ち込んだところ、その日がまさに最安値であった。

これは人知によっては知り得ぬ塩梅の良さ。

聖子さんもそれは安い、というので

その翌日18日にANAで探した、が、

名前の関係でクレカと折り合いが悪そうだった。

19日早朝からルフトハンザ を試すと問題なく支払うことができた。つまり確定!

これを前提に行動するわけである。

さらに、帯状疱疹の接種があったので外出。

さらに、バスをあちこちで合計2時間待ちながら、合間合間に歩きながら

電化製品屋まで行った。

パソコンとスマホが頼りない様子なので思い切って今のうちに買い換えるとして、

設定などのサポート体制を探りに行った。

そう明るくはない。

「ピアノを売るみたいなものですよ、練習はご自分でお金を出して習ってもらわないとね」だって、売り場のまるまる太ったおっさんが。

その後、予防注射のせいか頭が痛く、調子も悪かった。痛み止めが効いてくれた。

 

さあ、これから高橋夫人とパウルス教会のパイプオルガン演奏をちょっくら聴きに行く。でも空模様が夕立だ、雷も鳴り出した。これも神さんとの対話だ、全てオッケーとしよう。

それにしても、不思議な気持ち、自分がしたいことを臆せずやり通せる、やれるという妙な確信がある。それがあるのでこの数日のあたしの行動があるのだわ。いや、逆かな。行動予定で実行しない状態だと、予期不安に苛まれる。

もちろん歩く姿はちょっと情けないけどね、普通にさっさと足を運ぶことが難しい。77歳の最後の1週間、もっとも若い日々、と言い聞かす。

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「去りてまた遭う」 第3話 生と死を生きる

 

 

 自分でも、毎日が食べたか飲んだか、わからない。起きたのか寝たままだったのか。このままで死ぬのだろうか。あっちへ行けるのなら全然悪くないように思える。

 

 それにしても、私はまた夫を許す理由をみつけてしまったのだろうか。悪意に操られていたと。耄碌した頭から生まれた妄想に違いないあの存在たち、かれらの力をもう信用してしまったとでも。

 今日までの科学の考え方に従えば、物理的化学的にみて生命現象はいわば機械的に生成すると説明できるだろう。そこに偶然の運不運はあるが、とりあえず有機体が死滅すると、あとにはその生化学的物質が灰となって残る。エネルギーは放出されてまた別の物質に化するだろう。頭脳が蓄えた記憶、思い、知識、すべて基盤を失う。それらがばらばらなエネルギーとなっては、もうどうしようもないことだろう。そこに摩訶不思議な神と魂を持ち出す以外には。つまり存在の永続性を。コンタクトの永続性を。

 

 どこに取り付く島もないような老いた脳内で、私が捏ね上げたスピリチュアルな世界が、その全貌と働きが理解されてきたような気がする。ここではその真偽は問題ではなく、それでこの老いた脳が、幼い日ふるさとで父母を信頼し愛したその時のように、満足し安心できればそれでいいのだ。いやそれ以上の大きな愛の輪を信じられたらそれに超したことはない。悪さえも本源的なものではないとして。

 

「でもねえ、私や夫への恨みを持ち続けた人がいるとして」

 私が頭を傾けると、翠がそこにいて香しい楠のような薫りをふりまいた。

「実相完全円満」

 麗しい音波があたりに広がった。五人がそろって歌うかのように口を開け閉めしている。

「でもお姉さんにも非があったんでしょう? 恨まれるような?」

 礼がそう言いながら、私の人差し指をぎゅっと握っている。孫のゆうりがよくそんな風に握った。

「確かに。私だって人を平気で苦しめた、あるいは苦しんでいると知っているのにほっておいた。恨まれて当たり前だわね」

 

 腰の辺りの服に、薫と桂がしがみついている。息子たちがそんな風にまとわりついていた。子供の純な愛情というものの痛ましさが胸をつらぬいた。彼らは生存のために親を愛し必要とする、たとえそんな理由があるにせよ、美しく悲しい純情である。私もそんな風に自分の両親を愛し信じて、たよって生きていたのだ。

 

 すると、恐らく昔からありながら、今の世でも隠されたままでいる中にも、たまたま報道されるにいたった子供の虐待事件についての苦痛が私をとりこにしそうになった。 

「でも、独裁者やサディストや、それは本源的な悪でしょうに」

 五人の弟妹は、複雑な音波をばらまきながら、くるくる回転している。かれらとてそんな偶然か必然かわかりもしないことはくるくるするしかないのらしい。 

 現に彼らが何故生まれなかったのか、そこから疑問は生じる。壮大なシステムの当然の結果として、なのかあるいは、そのシステムは不完全なものとしてすでに最高権力者から見捨てられてでもいるのだろうか。そのほうがつじつまが合うと私には見えて仕方がない。

「かもしれない、ちがうかもしれない」

「でもわからない、わからないなら」

「システムの意図を探すのじゃなく、システムをすみずみまで知って、うまく使う知恵だね」

「必要なのはそれ、システムをうまく使うのが人間の頭脳に与えられた課題」

「生と死、心の安定の人間的問題はお姉さんにはもう解けたでしょ」

「死は、生をもっと拡大してくれるんでしょ、そうらしいよね」

「システムを理解し、保管し万全に働くようにって、人間の課題」

「はあ、あんたたち五人でそう言うのね。そうかもね、でもまだまだ遠いじゃない。もう文明発祥から五千年は経っているのに、進歩がないのじゃない」

 

 五人は声を揃え、同じ色の波長に染まりながら歌った。

「人間、がんばれ、もっと追求。社会の悪を苦しみを無くすための方途を研究するんだよ」

「かみさまに頼るんじゃなくてね、そのための知性なんだから理想の地球を作るのが役目だよ」

「そうなの!! 確かに知識人ほどもう人間を諦めているところがあるわねえ。そこを必死で各自が考えて、それを議論し共有しなくてはね。あまりにひどい今の地球。欠点を指摘し、改善し合う方法を開発するべきだよね。私も諦めすぎていた。夫とも、もう話さない、勝手にしなさい、とすぐに諦めた、だって水掛け論なんだもの。ここをクリアするディベートの方法があるのだろうか」

 

 私はしばらく考え込む。この無茶苦茶な世界をすっきりと整理し、切り捨てたり足したりして、公益を旨とする人間関係、また情緒も充たされる社会、そんな満足のいく、というか努力のむくわれる世界を、どうしたら論理的にまとめあげていけるのだろうか。少なくとも私には無理だ、とてもその規模に追いつけない。ひとりで出来ることでもない。

 

 ほんのこの前、ある天才について聞いたことがある。彼は(これが彼女だったら面白いのに)物事を見たとき、すぐにその骨組みと仕組み、細かな点の美醜、正否まで認識でき、かつそれを補正することができる。しかも数式が浮かんでくるというのだ。習ってもいない公式が抽出されてくる。こんな人物と義務教育もやっと終えられたような集中力のない、あるいはまずい親に育てられた人間とが、さてどんなディベートができるというのだろう。あるいはわがままいっぱいに育ち、オシャレとファッションと結婚しか頭にない人物と。あるいは日本であれ、イスラムであれ、アジアであれ伝統的な社会の枠組みでうまく生きることが重大であるような人間と。

 かなり無理なように見える。蟻と象が結婚するようなものだ。

 

 しかし、もし、こうしたらこんなに誰もが満足できる社会になりますよ、とうまく宣伝したら、ちょうどヒトラーのように、国中が挙げて賛成するかもしれない、洗脳されてであれ。それにしても、そんな試みにはものすごい年月がかかり、かつ担当者も何世代にもわたり熟慮を重ね、構築し、完成させねばならないだろうから、言っていいかどうかは別として、優生学ということを考えねばならないだろう。この二人には子供を諦めてもらうとか。あるいは、ウエイターにぴったりでそこに喜びを感じるような人種をつくるとか、あながち不可能ではないだろう。言うべきではないだろうが。

 

「お姉さんたら、ご苦労様、ひとりでそんなに考え込んで」

「もう十分だよ、世の人には知られなくてもわかっているんだよ」

「ほら、ちょっとお父さんとそれから長男とゆっくり話したら」

「いつも夢見ていたんでしょ。いつでも話せるんだよ」

「お姉さんがその能力と、環境の許す限りのことをやってきたこと、認めてくれるよ」

「愚かだから仕方ないって?」

 

 まだ慣れていない、私が彼らと生活していることに。怒りも恨みも呪いも苦痛も悲哀も、次第に洗い清められていくのかもしれない。わからないことではあるが、その可能性の方を信じたほうが良さそうだ。きっと効率的だ。

 

 私は、頭の中がいっそう激しく回転するのに任せる。

 もちろんまっすぐ歩けてはいないのだろう。手をさしのべて、微かな空気の圧力に触れ、挨拶しながら嬉しさが莫大であるのを感じる。

 私の両脚の筋肉はまだ剛い。心臓は正しく血液を末端まで送る。まだ肉体は死なない。そのままで彼らと共に無限の色と音と動きを生きるのだ。

 

           了