*ここ数日、毎朝のキッチン虹ショーは 雲にやや遮られている

それも良し

起きてすぐの1時間、「Anti-Chaos」の和約試み、ドイツ移住のわが使命と解釈し楽しく続行。ところが、その中で昨日発見、

タイトル「アンチカオスなる概念」だった! カオスでない=秩序、組織、という意味

それなのにずっと、カオスに反抗する状態 の説明書と思っていた錐子オババ でございます。

何の違いがある?かというと、一つの専門用語という位置づけで説明の重みがグッと増すわけです。あたしらしい変な反応回路です 自分でも???

 

 

*苦笑いでも楽しめれば結構、とばかり

電化製品買い替え、噛まれる、血豆こさえる、買い物できず、極貧食生活

これに続いてシリア人一家に変化 あるらしく(あたしはツンボ桟敷

両親引っ越し、三女の婚約、シリアに残されていた長女渡独か 下宿しているのは長女ではなく次女だった 総勢5人姉弟

教訓:慌てない、疑心暗鬼にならない、難しいけどね

まあ、何が起こってもあとは死ぬだけのこと、つまりホントの天国へ帰還のみ

なので

 

*計画通り粛々と事を進めるのみなり

血豆が癒えたので買い物へ、カートを押して外へ出て さて手押し車に

詰め替えようとすると、

「ちょっと、あそこにメガネ落としたのお宅では?」

見ると確かに4ユーロのあたしのメガネが地面にある

胸元に挿していたのに。落ちた音が聞こえてない。

もう一つ、

外国人局で待たされて、やっと呼ばれて窓口へ

準備していた古いパスポートをポケットからサッと出す

 

あれ、挟んでおいたヴィザカードがない、ジタバタする

「もしもし、何か落としてますよ」

自分の足元に大事な大事なヴィザがあった、音が聞こえてない

教訓:やっぱり補聴器を忘れたらダメだ〜〜 難しいけどね

落とした音くらいは聞こえたはずだ〜

 

 

*6月半ばに 高橋夫人も参加してマンハイムの花博へ 合唱団にくっついて行った

ところ(血豆の理由)、

広大すぎて、ゴンドラで繋がれた2つの地域を行き来、

あるいは結構お高い路面バス?を追いかけたり(暑い日だった)

やっとコンサート会場にたどり着く(自由行動なのでみんなバラバラ)

 

そこは元米軍基地で

草ぼうぼう、どこが花博? まるで開拓中のアメリカ西部!

全てが計画中、建築中、アイデア構築中

合唱団もそうとは想像してなかったとか、観客他になし、音響効果わろし

テントみたいな舞台なので

が、25人ほどの観客(=同行者)やけになって手足を打ち鳴らし歓声を送る

ビルギットもあまりの意外さにゲラゲラ笑いながら指揮をとる

選曲が良かった、西部開拓者に似合っていた

 

見渡すと笑ってしまう。また言うけど 草ぼうぼうだ

人間の野望は垣間見えるが失敗となりそう

 

古い庭園の方は手入れもよく花も麗しかった

コウノトリが自由に生息して子育てしており

ペンギンたちの餌やりを見学できた

イワシみたいなのを投げてやる、要領のいいのもいてバケツのそばで待っている

 

ところで昨日のSNSで

日本の動物園などサバにペンギンの餌を変えたところ(経営上)、彼らは全くそれを食べないのである。クサ!みたいな顔で咥えもしないで拒否。

この事、高橋夫人にも言わなきゃ。ペンギンたちのスマートさを喜んでいた彼女。

 

 

 

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    「去りてまた遭う」 第2話 迷妄1

 

 

 翌朝は、普通の朝だった。ベッドから降りて、書斎に行き、しかし思い立って珈琲を作りに行く。

 

  とうとう、人生でたったの一度も私のために珈琲を作ってくれる人は居なかったなあ、といまさらのように嘆きつつ。

 ドリップする雫をみつめていると、亡夫の言動がますます謎で、不可解で自虐的とも思われてくる。

 

 死ぬ間際には、これまで見たこともないほど立派であった。死をしっかりと見つめながら、刻々と私に説明してくれた。自分という存在がじわじわと薄まって行き、宇宙の彼方まで薄まって行くのだ、と。何度も呼吸困難に陥り、また戻ってきたのだが、ついにもう戻ってこなかった。

  その時には、私は本気で悲しんだ。本当はこんなに立派な夫であったのにそれを見通すことが出来なかったと自分を責め、失った尊い者を惜しんだ。

 

 しかし、日常的に思い出すのはどうしても理解不能、不条理そのものの彼の言動であった。

 

 お前を 愛している、絶対に分かれたくない、というのがいくらか本当であるのなら、なぜあそこまで私が嫌うようなことばかりしでくれたのだろう、私にすがっていながら、私をいつも突き飛ばした、ますます激しく。

  私が耐えられなくなって去るのを待っているのかとも思った。なぜもっと近づいて愛を感じさせてくれなかったのだろう。

  ちがう、結局は愛はなかった、別の理由があったのだ、おそらく私を苦しめること。苦しめがいがあったことだろう。なぜなら私は本当に強かった。ある意味びくともせずに、どんどん彼から離れていっただけだ。決して壊れなかった。

 

 私を壊そうとして、夫は早くから無茶をやった。健康に悪いことが好きで。健康を案じることを馬鹿にして。それが功を奏して早くから廃人になった。

  寝たきりならまだしも、ますます無茶を始めた。しかも私にそれを手伝わせて。そうして私をもっと束縛できるために。

 

 あるいは、私の一人暮らしの母を近くに呼び寄せようとしきりに提案した。もちろん、私はすぐに感づいた、きっと私をもっと束縛し自由を奪うためだと。母の看病のために家を留守にすることなどできないように。

  しかし、実際はもっと巧妙だった。私が母と過ごす時間を、夫は自分に不利な時間として私を責める理由とした。頭のいいやつだった。

  ただそんなことに使ってばかりで、才能をムダにした。それも私には腹立たしいことだった。せめて自分の仕事くらいきちんと果たしてくれたらまだ尊敬する余地が生じたことだろう。

 

 そのすべての合間に、彼は他の人を批判し罵り、軽蔑し、悪口雑言をはいた。私の前で。私に向かって。そのせいで、息子は対人恐怖症になったほどだ。父親の描く世間の様子は悪意に満ちていた、迫害と危険と嘘にみちていた。

 

 その全ての間に、彼は潔癖性だった。

  自分の手足を洗うことのみに時間をかけ、手と爪の細胞を破壊して、つまりなにひとつ手を使えなくなった。それが何を意味するか、私の仕事が増えたのである。片付けることも許されない、つまり彼の回りはおのずとゴミ屋敷になっていく。

  その中に通り道を確保し、少しの自分の場所を見つけて料理と洗濯をした。

 

 さらに彼は経済的にも私を苦しめた。週の半分をパートにでかける私を彼は許した。それはしてよいのだった。そのお金で私はいま得ている個人年金を払った。それはしてよいのだった。

  かれが会社からかすめ取るお金は、巧妙に、私が触れないように貯蓄され、おまけに遺書には、私には当座の生活費としてのみ使ってよいと書かれてある。

 

 私が待っていたのは自由になる日であった。

 あと五年、あと五年と医者は宣告したがそのたびにクリアして行った。

 自由を得たとき、私はもう八十歳になろうとしていた。

 

 だれもが離婚を勧めた。しかしいわゆる家庭内暴力の犠牲者である私にはとても恐ろしくてできるものではなかった。きっとストーカー殺人となるだろうと信じていた。それより目の前で観察している方がましだ。

 

 もし、閻魔大王がいて、私に尋ねたら答えよう。

 よく我慢しました。怖かったので自分を強く保って我慢しました。彼は私を壊すことに全力を用い、私はその中でも決して自分の出来ることを諦めませんでした。たとえそれが最も短い俳句という文芸であれ、スケッチという手早い業であれ。メールだけの友情であれ。

 

 その間に、楽しい旅行など一度もなく、願っていた文化的社会参加もしなかった。そうです、彼が成功したのは私の出来たはずのことを妨げたこと、今や私は自分が何者でありえたのかまったくわからない、のこりの滓で生きているのですから。これこそ彼の成し遂げたことです。

 

 閻魔大王様、なぜでしょうか。

 こんな関係を何十年も耐えたのは愚かだったのでしょうか。

 それとも私に何か利得があったのでしょうか。私は彼のせいにして自分の能力のなさ、あるいは家事を嫌いだということを見ないことにしたとでも。彼を怠ける理由にしたとでも。

  そして彼も私を怠ける理由にしたとでも。

 

  地獄、生き地獄、一種の。本当のではないけれども。愚かさとしか言いようがない。父が嘆くはずだ。それでもたくさんの愛が私を支えてくれていたのだ、それは確かだ。

 

続く