「母が去って4年になるなー」
と錐子オババの独白、今日はこんなところから始まった。
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ちょうどあたしの今の年頃の母が、道を隔てたマンションに住むようになってから、意外に親しい関係となった。それまで仲が悪かったのではなくちょっと波長が合わなかっただけ。
なんでもないことでも話しかけられて、笑い合えるいい感じだった。
母は感謝するのが上手だった、そしてあたしのことを「決してイライラしたり怒ったりしない」と何度も表明してくれたので、へえ、そうなんだあたし、と自分で感心した、ふふ。
そんな相手がいなくなったのは、やはり困る。今でも写真に話しかけるのだけど、返事がないし。
それで、
8月30日月曜日に、夫婦揃って退院を果たしたその続きが、バカらしすぎるので母に語りたいところなのである。
8月31日火曜日、
JBがハウスドクターのトレス先生に大学病院からの診断書を提出。
JBの腕の治らない傷を見てショックをあらわにした彼女は、「壊疽」なので入院するようにという申し送り書をくれた。これはOK 普通のありうること。
さて翌日の翌月、9月1日水曜日、前からの予約があった、
一昨日まで入院していた大学病院の別の階、普通の診察フロアで。
退院の際に、それに行くようにとわざわざ注意を喚起されていた。
おかしなことだと思いはしたが、
タクシーで往復2万円(健保から9割ほど出る)の遠征、あたしも駆り出されてドライブという感じ。
ところが、
秘書が「今日のはキャンセルしましたから、同じ検査をまたしても意味ないし」とぶすっとして宣告したのである。
それなら電話でもしてくれたら良さそうに!
ドイツ全土で市街地では車の速度制限が30キロになったので、タクシーは困っていた。
翌日9月2日木曜日、今度はあたしが自分の診断書を(マインツのとDiakonieのと2通)ハウスドクターに持っていく番だった。
31日にJBが一緒に持っていってくれるべきところだったが、彼のキャバシティを超えていたので自分のだけを提出したのだ。
11時ギリギリに決心したのでタクシーで行こうと思った。
ところが来ないのである。
速度制限30キロのせいらしい、40分も待った。
今から来ても12時までにたどり着かないのでキャンセル。
翌日9月3日金曜日、
実は退院した日にABC耳鼻科(この町医者がJBの検査をするらしく)から電話があり
JBの睡眠時無呼吸症候群の検査入院(Diakonieで行われる)を早めることになった。
それがこの日だった。JBも多忙である。
まず、要請されていた コロナの簡単検査の24時間以内無感染証明書をあつらえに出発。
マイタクシーのイラン人が教えてくれて、うまくできた。タクシーで帰宅。35ユーロ。
一息ついてから、夕方8時に例のDiakonieまでまたタクシーを呼びJBが出発。
9時までに来て一晩眠って検査される予定だった。
あたしはほっと一息つこうとしていた。そこへ
電話、「誰もいない、病棟が暗い」
1時間後電話、
「通りがかった看護師が調べてくれ、みんな病欠なのであなたも帰ったほうがいい、と言われた」
全く無意味だった。
電話を終えてから、この三日間の空無な騒動がはっきりと見えた。
あたしは大声で笑った、お腹の底から可笑しかった。(恐らく耳鼻科の町医者とDiakonieの間で予約変更の連絡が取れていなかったのだろう)
ところで追加情報:
この9月3日金曜日午前中に、あたしはもうトレス先生の診察を受けていた。
アラフォーで睫毛の濃いルーマニア人の彼女は、診断書を読み、あれこれ説明、薬を変えたりしてくれた。
「不整脈の手術を勧められてるのですが、症状が無くなったので迷ってますけど」
「受けてください、ここに書いてあるようにエコー検査で心房細動が見られてるのですから」
「まあ、自分では感じられなくてもある訳ですか」
これは確かなことになったなと感じた。
(幸せの相対的判断、この技には慣れてきたけど、でもJB関連はどうもまだ下手すぎるなあ。彼は彼で欠けたる所なき魂で、この世の勤めを果たしているはずだが、あたしがそれをネガティブ判断してその姿を見ているだけだ。そこまでわかっているのになあ。。。)
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0902 嫌(いと)ふもの一つあるとも 自らも含め平均51点へ
おりおりの歌伴なひて逍遥す 山河きよらに平和の国に
0904 ふるさとの歌聴かむとにあらねども SONYプレイヤ点くる夜半なり

