はい、長ーくなりましたが考察最後となります
とはいえ、まだまだ不完全なものでございます
まだまだ論理の接合が上手くいかない点もあるし
新事実が沸き上がるようなこともあります
明確な解を持たないのがZektbachの良い所であり、悪い所と思います
(多分、これ読んでいるZektbach殿は、微笑んでそうw)
というわけで
この考察はKONAMI及びZektbach本人とは無関係であり非公式なものです
考察に嫌悪感がある方はおひきとり下さい
・・・宜しいですね?
では参ります
今回は全体通して見た時浮かび上がる憑依についてです
まずは、ざっと歌詞見た時に感じることからです
この蛇神とは2連目にあたる部分から
ギジリの辿った軌跡を歌った歌と考えられます
カガチジンという民族の歴史は
エンカムイという土地が主体になって歌っていますね
解釈の一例をここで上げたいと思います
1連目は遜る言葉等でヤマジジン向けの顔
2連目はギジリの裏に潜む顔
3連目はカガチジンが古来もたらしていたものについて思いふけ
4連目はギジリから離れ情景を歌っている
また、単語は「祓う」ことについてが多い気がします
この点をあげてみますと
・風は息吹
日本全国の半年分の穢れを落とす大祓いの時に読まれる祝詞にうたわれています
・比禮を揺らいで
これで邪気を祓うことが出来ると考えられてました
・縁払う
いざなぎ流にてのお祓いの方法
悪霊との縁を切ってみてぐら(幣)に集める
・火の色の衣
火は触れることで浄化することが出来ると考えられていた
とこのようにあります
また、曲の終盤に流れる高く澄み切った鈴の音は
神道ではお祓いに使う音なのです
近くの神社で巫女さんが鈴を鳴らして舞うことがあると思います
これから、ギジリは穢れを恐れている点があると思います
すなわち、自分自身がマガヒトではないかのように
あれもこれも術を施しているかのようです
さて、本題です
蛇神の歌詞には「憑依」についても深いものがあります
歌詞にあるカムがかる(神懸かる)とは神霊が人に乗り移ることです
古事記の中でアメノウズメは踊りながら神懸かりをおこして神々を笑わせたそうです
具体的には服がはだけて半狂乱の中
あんなことやこんなことをしたとかなんとか
この憑依には大まかに二つのパターンに分けられて
一つが術者の魂が身体を抜けて神や霊の世界へ行き、
直接神や霊に会いにいくタイプ(ecstasy)
もう一つが術者の身体へ神や霊を宿らせて
自分達の世界で交流するタイプ(possession)があります
神懸かりはこの後者のタイプの憑依といえます
今では神懸かりといった憑依は
西洋医学の「精神病」としてまとめられており
また、明治時代における宗教改革によって
表舞台からは姿を消すこととなります
しかし、憑依をする恐山のイタコや沖縄のノロ等の人々は
今でも身近にいる人の心の支えとしている所もあるのです
この憑依を行うことで表されるのは
1、神や精霊から直接触れることで力を得ることができる
2、神や精霊と面と向かって交流して、任せられたり課せられている役割を果たす
3、力を使う時は通常とは異なる精神(トランス状態)になる
という特徴があります
これらのことをギジリに当て嵌めてみると
まずは1番の件について
ソニギが持つ背中にある痣は
「背中に蛇を住まわせている」といわれていました
この憑いている霊は蛇ですね
山陰地方にはトウビョウという蛇が憑いていた一族がいたといわれています
(詳しくは蛇神歌詞考察Ⅴ参照のこと)
ギジリもこの痣があり、蛇という精霊が直接触れることができたと考えられます
二つめ
役割を果たすことについて
これは憑依をする人が神や霊の仲立ちであったことから起因しています
クニギの代にあったガテナの虐殺や
ヤマジジンの圧制などより
術の意味は元より術すら廃れてしまいました
これは3つの中で最も欠落している部分といえます
そこでギジリは何をしたか?といえば
一族のルーツを辿ることにありました
このことでギジリの憑依の力は上がることになります
みっつめ
これは蛇神の歌詞から推測できます
一連目は自然の雄大さを折り込む言葉があり
他者に対して気をつかう言葉使いです
対して二連目は人を呪いをかけて攻撃したり
力を意味する刀を手に握るという風に捉えられます
一連目だけ見れば気弱な印象を持つ人が
二連目から攻撃的になっており
まるで180度性格が変わったかのように感じられます
憑依をすれば「他人が乗り移る」かの如く
ここで憑依したと考えれば合点がいきます
また、ギジリのイミナを見る力は幻視を伴うそうです
力は常に解放しても良さそうなのに隠しているということは
この幻視は弊害があるといえます
ここからは推測の域ですが
この幻視はミサクヤにフラれたシーンをみせていると思います
さて、シャーマンになるには受け身な所があるといわれています
あるとき突然、「巫病」という身体の不調を訴えることがおきます
現象としては高熱や身体の痺れ、頭痛を訴え
また、幻聴や幻覚が見えたり聞こえたりするのです
巫病は神や霊がシャーマンになるよう誘う行動であり
本人の意思でシャーマンになるのを拒否することは出来ないとされます
巫病は日本の北にいるイタコから
南にいるユタやノロ(カンダーリィ)に至るまで
全国各地で分布してまして
また、世界のシャーマン達にも見られる傾向にあります
それを克服して立派なシャーマンへとなるわけです
現代の巫病は医学で一種のノイローゼと表せ
一歩間違えば精神病として隔離の処置を行うものとなりました
ギジリの場合は蛇神を使う技は既に途絶えていても同然で
能力が開花した時は全くの未知なるものがいきなり使えたと風になります
周りの反応は精神病の扱いに似て
気違いと思われたりしやすい環境であったと考えられます
つまり、村の中でも逆境に晒されていたというわけ
また、ギジリが凄いのはこの憑依を体系化したこともあげられます
理科の実験のように、過去からの積み重ねを
一人でこなしてしまった所にあると
これで才能が無い人でもある程度は使いこなせるようになります
例えて言うなら、テレビリモコンを作るのに
多大な時間をかけた研究者がいて
ある程度理論をまとめられるから
見ず知らずの人が少し使い方を覚えれば
リモコンでテレビを見たりチャンネルを回せれるわけ
これはシャーマンが出来る流れの一つにあたり
巫病になった人が先輩のシャーマンにすがり
シャーマンの技の伝承などを行われているのです
これは、一人前のイタコになる流れに近いものがあります
イタコの人々は盲目になった事をきっかけに
先輩のイタコに弟子入りをしてなります
口から術のかけかたを数年伝え
そして、近くに見守る神を降ろす儀式をしてイタコになります
ただ、ギジリはこの憑依の仕組みを伝えるというよりは
私利私欲で使うニュアンスが強いと思います
ここで、ギジリが使う憑依の元は何処から来ているかという点についての考察
憑依する人物の成り立ちには必ず
「神」や「霊」という人とは違う超越した何かが存在します
カガチジンの力は空舟の遺跡にて「奇しき光り」を浴びていた人々の子孫が
クニギの代で発現して増えたという流れにあります
この世界でいう目に見えなくて超越したものといえば・・・
リスタチアがありますね
シャーマンになる前に起こる巫病は
「神や霊の誘いがないと起こらないし、逃れることが出来ない」と
今まで起こしたリスタチア関連の流れと一致している部分があります
これはリスタチア関連の行動が明確な
シャムシールやアンネースにも見られます
シャムシールの場合、コラーダの噂を聞いて誘われるように探し
(第1章第1節第1話『その名はシャムシール』)
自分の意識に反して(というか無いまま)国を滅ぼしています
アンネースはドラマCD内で
アポカリプスソードが置かれていたルルドの井戸へ下りる際に
「私を呼んでいる」と司祭のエルネストに向かって言っています
ファラリエンを燃やす直前では
村人の善行で罪狩り執行を止めるそぶりをみせるものの
神の声がした後に起こされています
(第4章第1節第4話『啓示』)
もしかしたらフラれた瞬間に
赤い天使が囁いたのかもしれません
ギジリはヤマジジンが作った歪んだ歴史を正そうと対立したので、
ある意味では英雄でありながらも
過去に憑り付かれた哀れな男の一面を持っています
時の積み重なりは大切なアイデンティティとして我々の側にありますが
それを反らして新しい道の模索もあるのではないかと
Zektbach殿は語っているのではないでしょうか?
また、それとは対照的に今も日本人の根底に息づいている
祓いや穢れ、憑依といったの文化の雄大さに
目を向ける事の大切さも訴えかけている気がします
というわけで今回はここまで!!!
1番はじめの記事に考察を起こした部分を切ったり
新しい事が判明して書きたい事足したりしたら
脈絡がばらばらです\(^o^)/
精進が足りないですね、うん
憑依についてまとめた理由は
「やあ、皆。我の名はZektbach。通称Zektbach the possession。神留のゼクトだ。」と
蛇神の曲コメにあったから
なんかしら二つ名には曲のイメージとか入っているので
秘かに注目しておりますw
案の定、世界観に関連していそうなことがごろごろしておりました
後、ギジリは自己顕示力が強い、厨二病の邪気眼持ちとふと思いましたw